世界を割る
「世界を割る」第38回

第38回 コーヒーを飲む

コーヒーをよく飲んでいる。

人間ドックで検査をした結果、肝臓に関する数値が思わしくなくて再検査を受けることになった。というのは毎年恒例のことで、それほど動揺はしていないのだが、「歳を重ねていけばどんどん肝臓への負荷が蓄積していくんだろうな……」と、さすがに少し憂鬱にはなる。

「肝臓 食生活」「肝臓 サプリ」などと検索して、何か知見を得られないかとパソコンに向かっていて、コーヒーがいいらしいという情報を得た。暇なら「肝臓 コーヒー」と検索してみて欲しい。脂肪肝が抑制されるとか、肝臓がんの発生率が低下するとか、とにかくコーヒーを飲んでおくと間違いないみたいなのだ。

東京で会社員勤めをしている頃は休憩室にコーヒーメーカーが設置されていて、缶飲料を買うお金惜しさにコーヒーばかり飲んでいたが、それですっかり「無料で飲むもの」というイメージが自分の中にできてしまったからか、缶コーヒーを買ったり喫茶店に入ったする機会は普段ほとんどなかった。

とはいえ、コーヒーが嫌いなわけじゃないし、肝臓にいいというなら喜んで飲ませていただこう。家でインスタントコーヒーを飲むようにして、近所の喫茶店にも行くようになった。

喫茶店というのは、いいものですね。いや、いいことは知っていた。古びた大衆酒場が好きなら、年季の入った純喫茶の雰囲気だって好きに決まっている。しかも酒場よりもずっと静かで、ゆるやかな時間を過ごすことができる気がする。読書や考え事には酒場より喫茶店の方が向いているな、と、誰でもとっくに知っていそうなことを改めて学んだ。

それで、「喫茶店めぐり」というほど意気込んでいるわけではないけど、散歩の途中によさそうな店を見つけたらできるだけ入るぐらいの姿勢であちこちの喫茶店に立ち寄るようになって、大阪市内のとある駅の近くの「M」という店に行ったのだった。

店名を書いた看板よりも先に目に入るのは好き放題に繁茂したような植物群だ。フッサフサした葉が地面まですっかり覆うように伸びまくっていて、それが植木鉢から生えているのか、花壇のようなところから生えているのか確かめようがない。一つ一つ種類が異なるのだろうけど残念ながら自分にはその一つの名前すらわからない草花が、そのうち店全体を覆い隠してしまうんじゃないかと思わせる威容を見せている。

実際、看板は草に半分隠れていた。そこに「M」とある。あ、本当に「M」という名前なのではなく、伏せ字にしている。

茶色いガラス製のドアを開けて入っていくと、店内のいたるところに観葉植物の鉢植えが置かれ、でもそれで窮屈な感じは受けない。天井が高いのと、入って右手の壁側のほぼ全面が広い窓になっているために日差しが店内に入り、そのせいもあってのことかもしれない。

4人掛けのテーブル席がゆったりした間隔でいくつも置かれ、広々として感じる店内なのだが、客は私一人だ。こういう時期だから、客足が遠のいているんだろうか。それでも店主らしき人は白いシャツに黒いベストに蝶ネクタイという服装で、その格好で出迎える今日の客が私だけだったらなんだか申し訳ないな、と思ったりした。でもこういう店は午前中が混み合っていたりして、今は昼下がりというより夕方に近いぐらいの時間帯だから、それでちょうど空いていたのかも。

少し迷った末に入口に近い席を選んで座ると、水の入ったグラスと革張りのメニュー表を持った店主がスッとこちらへやってきて、「ご注文お決まりになりましたらお声がけください」と言って再びカウンターへ去っていく。私は「ホットコーヒー」を注文しようと決めていたのだが、去って行くところに呼びかけるのも悪い気がして、しばらくメニューをにらんで迷うふりをしてから、「ホットコーヒーお願いします」と店主へ声をかけた。「ブレンドでよろしいですか?」というので「はい」と答える。

私はコーヒーの味のことはわからなくて、「M」のコーヒーも“肝臓にいい薬”を飲む感覚で、要するにじっくりと味わうこともなく慌ただしく飲み進んでしまっていたのだが、店主がカウンターの方から「うちのブレンド、酸味ある方でしょ?」と言うので、「まったくわかりません」と返すのも恥ずかしくて、「はい。確かにですね!」みたいな変な返事をしてしまう。

店主はなおも続ける。
「ここまでの、珍しいんちゃいます?フルーティーいうんかな?特徴あるでしょ」
「うんうん。フルーティー、わかります」
「お客さん、こちら系お好きな方?」
「そうですね。まあ……なんでも系で」

背中に汗をかいてくる。「コーヒーについて何も知りません。苦い薬だと思って飲んでます」と白状したい。というか店主がこんな饒舌な人だとは意外であった。

「あちこち、飲み歩いてはるんちゃいます?」
「いや、あの……実はまったくの初心者で」
「へえ!いい店選びましたな。はは」
「はは」
「僕ね、コーヒーのことわかるようになったん50になってからですねん」
「そうなんですか?」
「それまで少しも知らん。酒ばっか飲んでましてね」
「そうなんですね」
「そんでいわしてもうて、体。あちこちね。そっからですねん、この道」
「それは、なんというか……」
「飲んでいったらコーヒーって、酔えるんですわ」
「そうなんですか?コーヒーで?」
「酔えるんですわ」
「酔いますか」
「酔いますねぇ。ものによってね。あのね」

そこでドアが開き、スーパーの袋を両手に持ったご婦人が入ってきて、「マスターこれ、言うてたん、買うてきた」「あー、ありがとぉ!え!トマトも入ってるやん」「あったからな、お金いらんで!いらんいらん!」というようなやり取りが始まったので、できるだけ邪魔にならぬようお会計を済ませて店を出た。

「M」から駅まで、それほど遠くなかったはずなのになかなかたどり着かない。勘に頼るのはやめ、ポケットからスマホを取り出してナビアプリを立ち上げようとして、その場にしゃがみ込んだ。なぜかふらつく。

「ケータイ落ちてるでぇ!」という声にビクッとなって足元を見ると、自分のスマホが地面に落ちている。声をかけてくれた人は自転車に乗っていてすでに遠くなりかけている。さっき夕方だったはずなのに辺りがすっかり暗くなっていて驚いた。私はどれぐらいの間うずくまっていたんだろうか。

コーヒーで酔うということが本当にあるものなのか。詳しいことはよくわからないが、近いうちにまた「M」をたずねてみたいと思っている。

スズキナオ
スズキナオ
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1979年生まれ水瓶座・A型。酒と徘徊が趣味の東京生まれ大阪在住のフリーライター。WEBサイト「デイリーポータルZ」「集英社新書プラス」「メシ通」などで執筆中。テクノラップバンド「チミドロ」のリーダーで、ことさら出版からはbutajiとのユニット「遠い街」のCDをリリース。大阪・西九条のミニコミ書店「シカク」の広報担当も務める。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』、『遅く起きた日曜日にいつもの自分じゃないほうを選ぶ』(共にスタンド・ブックス)、『「それから」の大阪』(集英社)、『酒ともやしと横になる私』(シカク出版)『思い出せない思い出たちが僕らを家族にしてくれる』(新潮社)。パリッコとの共著に『酒の穴』『酒の穴エクストラプレーン』(シカク出版)、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』(ele-king books)、『“よむ”お酒』(イースト・プレス)、『ご自由にお持ちくださいを見つけるまで家に帰れない一日』(スタンド・ブックス)。

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