世界を割る

第39回 酒を飲む

「世界を割る」第39回

人間ドックを受けに行ったところ、半月ほどして郵送されてきた結果の中に「要精密検査」と記された項目があった。

肝臓に関する数値なので、「まあ酒のことだろう」と思った。「再検査?はあ?忙しいんだわ」と突っぱねる豪快な酒飲みもいるかもしれないが、私は小心者なのですぐに再検査をしてもらいに行くことにした。

人間ドックからの通知によれば、再検査は別にどこの病院で受けてもいいとのこと。であれば、近所の病院を選んでおいた方が、何度か通うことになる場合にも便利だなと考えた。

そういえば近所に、ここ数年以内にできたと記憶する新しめの病院があり、その医院の看板に「内科」、「消化器科」といった文字列に並んで「肝臓専門医」という文字もあったのを記憶していた。家から歩いて5分ほどしかかからない距離に肝臓のプロフェッショナルがいるとは、幸運なことに思える。すぐに電話番号を調べて予約を入れた。

数日後、予約の当日となり、その病院へやってきた。中に入ってみると、真新しい建物の隅々まで照明で明るく照らされ、掃除が行き届いているのがわかる。壁には「当院はウイルス、雑菌の除去を徹底しており、定期的に換気、院内のアルコール洗浄を行っております」みたいな風に書いたポスターがどこからでも見えるよう、あちこちに貼ってあり、この病院で働く人々の几帳面さをうかがわせた。

しばらくして名前が呼ばれ、診察室に通された。布カーテンを手でよけて隙間を作り、そこから入っていったすぐ左手にパソコンが置かれた机があり、その前の椅子に医師が腰かけている。短く刈り揃えた髪には白髪が多いため、少し離れた場所に座るように促された私の距離からはグレーに見える。フレームの細い凝ったデザインのメガネをかけて、目元から下は大きなマスクで覆われている。白衣に包まれたその体をそれほどまじまじと見たわけではなかったが、ほっそりとした体格に見えた。休日にはジョギングを欠かさず、シャツの下には適度に発達した筋肉が隠されているかもしれないと思った。

医師は私が事前に受付に提出しておいた人間ドックの検査結果の用紙を見つめながら「ASTが22、これは問題ない。ALTも。で、ええとビリルビンが?なるほど。ああ、中性脂肪高いな、なるほど」と、私に向けてではなく、つぶやいている。しばらくして私にチラッと目をやり、「数字を見ると一番考えられるのはアルコール関連ですが、お酒は」と医師がまだ話している途中で私は「そう、お酒飲むんですよ!仕事で飲むことが多くて、ライターというか、文章を書く仕事をしていて!飲食店を取材することが多いものですから、それで結構」と話始め、私がまだ話している途中で今度は医師が「はいはい、わかりました。ライター、お酒、なるほど。お仕事でお酒を飲まれる。家でも飲まれる?つまりお仕事以外でも」とたずねてきたので、そこで静かな間が生まれた。

「……家でも、飲みますね」と答えた。というか、ここ数か月、仕事で酒を飲む機会などそれほどないのである。肝臓が悲鳴を上げているとすれば、それは私が、仕事のない暇な時間を持て余して朝から晩まで切れ目なくダラダラと酒を飲み続けているせいなのに違いなかった。

「どれぐらいですか?量は。まず、何を飲むんですか?種類は」と医師が聞く。「焼酎が多くて、ビールがたまに、いや、発泡酒ですね。どっちでも一緒ですか?ははっ」「瓶ビールでいうと1本ですか?2本ですか?」「1本かな。どうだろう。2本か。いつも、缶なので……」と、なんだか気恥ずかしいやり取りが続き、背中に汗をかいた。

キーボードでパシャパシャと何か入力しながら、医師は「仕事以外でお酒を飲むのを、やめることですね」と言った。私は驚いて聞き返した。「え、やめる……。というのは、ずっとですか?一生?」すると医師が呆れたような表情を浮かべるのが、メガネの下の目元が見えるだけで、顔のほとんどがマスクに覆われた状態であるにもかかわらず、わかった。

「お酒のダメージは甘くないんですよ。もっと若ければ回復するものでも、もう制限しながら生活していかないとならない年齢に差しかかっているんですよ。今日は血液検査をしますので別室で採血してください。結果をまた聞きに来てください。いいですか?」

会計を済ませて病院を出た後、私は家に戻らず、来た道と反対方向へ歩き続けることにした。「家で飲むのをやめる」とはどういうことだ。夕飯を食べながら発泡酒を飲む、とか、そういうことはするなということか。天気のいい日に昼から酒を飲んでごろごろするようなのも、やめるということだよな。それって、なんだ。それで生きていて楽しいんだろうか。いや、でも「仕事以外で」と言っていた。つまり仕事でなら飲んでもいいと、いやしかし、少なくとも家では飲むなということで……。

と、同じ思考の道筋を何度もたどり直しながらどこへともなく歩いていると、いつの間にか相当遠くまで来ていることに気づいた。日が暮れかけている。スマホの時計を見て、病院を出てから2時間近くも歩いていたことがわかって驚いた。どこだここは。そろそろ帰ろうとナビを起動し、道案内に従って引き返す。そこからまただいぶ歩き、思いもよらぬルートでふいに近所の景色が戻ってきた。すっかり夜である。

うちの近所は、最寄り駅の駅前も閑散していて、住宅ばかり建つ中に飲食店がポツポツとあるだけなのだが、一軒だけ、老舗大衆酒場然とした居酒屋がある。その店の前を通りかかった。軒先に提灯がたくさん吊るされていて、ドアは開け放してあり、カウンターで飲んでいる客の背中が外からも丸見えだ。今日も何人かの客が刺身か何かつつきながら飲んでいるようだ。

私はふと思った。そうだった。前からこの店のことを取材して原稿に書きたいと思っていたんだった。今すぐ取材するわけではないにせよ、いつかきっと何かの形で書けるような気がする。ちょっと寄っていこう。と、私は「これは仕事だ」と自分に言い聞かせつつ店の敷地に足を踏み入れた。

カウンターに通され、瓶ビール(大)とマグロぶつとほうれん草のおひたしを注文した。ビールをグラスに注ぎ、飲む。これだ。やはりこれなのである。今後も引き続き飲もう。いや、もちろん、体のことは重々気をつけつつ、量を減らしてちびちびと飲んでいこう。それが私の仕事なのだ!と、グラスをグッと傾けて中身を飲み干し、私から見て左斜め前方、カウンターの隅に座っている先客の姿を見て驚いた。先ほどの病院の先生なのである。

あのメガネ、あのグレーの髪。さっきの先生が、カウンターで酒を飲んでいる。あんな風に言われたのにもう早速飲みに来ているんだから叱られそうでもあるが、これは仕事なのだ。開き直って、向こうの胸元に飛び込むスタイルでいこう。

私の視線を感じた向こうも、こっちをチラチラ見ている。どうやら私に気づいたみたいだ。なんとなくこっちに向かって顔を歪め、微笑んだ気がする。私はカウンターの中の店員さんに「すみません!知り合いがいたので」と声をかけ、先生の方に移動させてもらうことにした。

「なんやぁ。どうしたぁ」と笑う先生に対し、念のため「さっきの人間ドックの者です。ありがとうございました。今日は仕事で飲みに来て」と告げる。「はあ、仕事で来たん。飲んでるか?」と先生。「はい、まあちょっとだけです。先生は飲んでるんですか?」と私。

「飲んでるよぉ!ガバガバや!」
「ははは!いいっすね!飲んでますか」
「飲んでる飲んでる。いっつも飲んでる!この調子でいくとな、明日も飲んでるわ!」
「ははは。明日も」
「たぶんやけどなぁ。たぶんやで」
「お酒、どれぐらい飲むのがいいんでしょうか」
「え?」
「お酒は、量は、どれぐらいがいいんでしょう」
「そんなんは、好きずきやねぇ。前ほど飲まへんよ。なあ?大将、前ほど飲まんよな?え、飲んでるか」
「はは、飲んでるじゃないですか」

と、そんな風にしばらく話していたのだが、なんとなく勢いでこっちに移動してきてしまったものの、せっかく先生が一人で飲みたかったところを私が邪魔してしまったんじゃないかと、急に後悔に近い気分に満たされ始めた。沈黙が流れ、私は手元のグラスに残ったビールを飲み干したら「そろそろ帰ります」と言うぞ、と思った。すると先生が先に声を出した。

「なんやちょっと飲み過ぎたなぁ。そろそろ潮時や。大将帰るわ!お会計!」
「あ、お帰りですか」
「うん。兄ちゃんもがんばりや!」
「なんかすみませんでした急に!」
「ええよ。またなぁ」

右手を軽く上げて去って行く後姿を見つめながら、笑ってしまった。よく見たら、全然先生じゃないのだ。背格好からしてまったく違う。後頭部の感じなんか、似ても似つかない。

私は動揺を悟られないよう、平然と「こっちもお会計で!」と店員さんに言い、千数百円を支払って店を出た。家に向かって歩きながら、「このまま行くとあの病院の前を通ることになる」と思い、別の道を選んで帰った。

スズキナオ
スズキナオ
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1979年生まれ水瓶座・A型。酒と徘徊が趣味の東京生まれ大阪在住のフリーライター。WEBサイト「デイリーポータルZ」「集英社新書プラス」「メシ通」などで執筆中。テクノラップバンド「チミドロ」のリーダーで、ことさら出版からはbutajiとのユニット「遠い街」のCDをリリース。大阪・西九条のミニコミ書店「シカク」の広報担当も務める。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』、『遅く起きた日曜日にいつもの自分じゃないほうを選ぶ』(共にスタンド・ブックス)、『「それから」の大阪』(集英社)、『酒ともやしと横になる私』(シカク出版)『思い出せない思い出たちが僕らを家族にしてくれる』(新潮社)。パリッコとの共著に『酒の穴』『酒の穴エクストラプレーン』(シカク出版)、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』(ele-king books)、『“よむ”お酒』(イースト・プレス)、『ご自由にお持ちくださいを見つけるまで家に帰れない一日』(スタンド・ブックス)。

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