世界を割る
「世界を割る」第37回

第37回 青汁で割る

「世界を割る」第37回

桔梗さんに出会ったのは祐天寺の有名なもつ焼き店でのことだった。仕事を終えて急いで祐天寺まで向かったが、人気店なので19時前からすでに満席であった。「せっかく来たし、外で待つか」と思っていると、その店には、胸の高さに板が一枚渡されただけのような、ほんの少しの立ち飲みスペースがあって、そこで飲んで待っていてもいいとのこと。
もちろんそうさせてもらうことにして、名物のレモンチューハイの旨さにうなっていたのだが、その時、隣にいたのが桔梗さんだった。背広姿で、年齢のことを聞いたことはないけど、今想像するに50代前半ぐらいじゃなかっただろうか。それぐらいの年齢の男性に見えた。
とにかく狭いスペースなので、お互いの体が当たらぬように気を遣い合って会釈したりして、「どうもどうも、あ、すみません、いえいえ」なんて感じで言い合っているところに店員さんから声がかかり、「お席、相席でしたらすぐ行けますけど!」という。
背広姿の男性と目線を合わせ、どうしたものかと思っていると、男性が「あ、私は大丈夫ですけど、大丈夫ですか?」と私に聞いてくる。「あ、はい、全然大丈夫です。ぜひ」と私は答え、初対面の人と差し向かいで飲むことになった。そうなるともう、言葉を交わさないのが変なぐらいで、「よく来るんですか?」という私の質問から「ええ、まあ、よく来てる、方かな」「へー!仕事はお近くで?」「いや、結構時間かけて来てますよ、ははは」「そうなんですか」「わたし居酒屋をあちこち行くの好きなんです。趣味ですね、趣味それだけ!はは」と話が続き、最初っから二人で飲みに来たような気分になってきた。
「失礼ですけどお名前は?」「僕は鈴木です」「鈴木さんね。鈴木さん」「あの、お名前は?」「僕はちょっと隠してるわけじゃないんですけど桔梗、ききょうです」「桔梗さん?」「ペンネームというか、居酒屋ネーム。本名じゃないんです」と、そうやって私はその人を桔梗さんと呼ぶことになった。
テーブルの上のつまみがあらかた片付いたところで、桔梗さんが「もう一軒このあとどうです。渋い店知ってますよ、しっぶいです」と言った。そういう誘いが嫌いじゃない私は「いいっすね。もちろん」と二人で店を出て、桔梗さんの案内でハシゴ酒をして、帰りにメールアドレスを交換した。

それから、なんとなく連絡を取り合わなくなった1年先ぐらいまでの間、桔梗さんと私はあちこちに飲みに行った。桔梗さんは酒場マニアで吉田類の大ファンなのでいい店をたくさん調べて知っている。その案内に身を任せるだけで、名前しか知らなかった名酒場をたくさんめぐることができ、私も楽しかった。
たまに桔梗さんが飲み仲間を連れてくることもあって、紅花さんとか、蓮華さんとか、みんな花の名前で呼び合っている中、私だけはずっと鈴木さんだった。果てしないほどいくらでも飲む女性が多かった。みんな笑い上戸で、一緒にいるだけで、仕事がどんなにうまくいかなくても、こういう時間があるんだからいいやと思えた日々だった。
桔梗さんは気づけば私にすっかり気を遣うことがなくなった。二人で飲んでいても酔って寝てしまうことも多く、肩を貸すようにしてなんとかタクシーに乗せたりすることもよくあった。その時、なんとも言えない、おじさんの香りというか、まあ今の自分も同じようなもんなんだろうけど、桔梗さんの匂いがいつまでも自分の周りに残り、「ったくよー」と思いつつ、まあそれも悪くない気分だった。

そんな風にだいぶ酔っていたある日の桔梗さんが、急にこんなことを言った。「鈴木さん、ねえ、一番うまい飲み物ってなんですか?」「うまいのは、酒ですよね。立石で飲んだ生ホッピーがすごかったです、キンキンで」「そういうのあるでしょ、そういうのあるけど、ねえ、僕はねぇ、一番は、めっちゃめっちゃにぃ、がまんして飲むのが一番美味しいですねぇ」「ああ!それはそうかもしれない。山登りして飲んだビールすごかったっす」「そうでしょぉ。だからねぇ本当はこんな風にねえ、頻繁に飲んでるより、めっちゃめっちゃにぃ、我慢したほうがうまいはうまいです。信じられないぐらいです」

そうだろうと思う。酒でも、食欲でも睡眠欲でも性欲でも排泄欲でもなんでもいいが、長いためがあってやっとそれが解放される時、脳内にビキーッと走るものがある。小さな快感を積み重ねるより、我慢の末にたまに大きな快感を得る方が感動は大きいのかもしれない。

「僕一番、旨かったのね。僕つかまっちゃったんですよ。すっごい前ですけど、悪いことしちゃって。結構長く入っちゃうことになって、それが何とか聞かないでくださいよ!ははは、悪いこと何したか言えないですけどぉ、1年ぐらい入ることになっちゃった時あって、我慢すればいいのに途中で我慢できなかったんですよ。すっごいめっちゃめっちゃ環境が嫌で、嫌なやつとかいっぱいいるんで、嫌なんですよ。本当に嫌で、ふざけんなっていうぐらいの嫌なやつで、それで逃げ出したことあってぇ、めっちゃ昔ですよ?ああいうとこって、逃げられないと思ったら、なんか近くに林というか森みたいな山みたいなのがあったから、めちゃめちゃに入ってったら結構行けたんですよ、運がいいんだか悪いんだか、どっちだか!ねえ。最後、最後ですよ?またつかまって戻されたんですけど、何日かだけは林にいたんですよ。そしたら、なんも飲むもんがないからめっちゃ喉が渇いて、暑かったんですよその頃。ねえ。逃げるとかの前に飲み物ないと死んじゃうっていう、ははは、はーはぁ。そしたらめちゃめちゃに歩いたら、どこだかもうわかんないですけど、変な大きな電線?鉄の塔とかありますよね。その、それが並んでるところの近くに水たまりっていうか、沼ですか?大きくないけど、水があって、そこに顔をくっつけて飲んだら水がうまくてうまくて、でもすごい今思ったらきれいな水ではない。でもそんなのもういいから飲んだんですけど、あれ旨かったですよぉ。青汁ハイ飲んでる人みると、結構、たまに思いだしちゃってえ」

と、桔梗さんと私が座っているカウンターの2席離れたところで焼酎の青汁割りを飲んでいる人を指さして桔梗さんは言った。青汁割りを飲んでいる人が気を悪くしないかとヒヤヒヤしたが、その人はこちらを気にしてないみたいだった。

それ以来、青汁を飲む時、今度は私が桔梗さんのことを思い出すようになった。それにしても今の青汁って本当に飲みやすい。これなら毎日でも続けられそうだ。

スズキナオ
スズキナオ
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1979年生まれ水瓶座・A型。酒と徘徊が趣味の東京生まれ大阪在住のフリーライター。WEBサイト「デイリーポータルZ」「集英社新書プラス」「メシ通」などで執筆中。テクノラップバンド「チミドロ」のリーダーで、ことさら出版からはbutajiとのユニット「遠い街」のCDをリリース。大阪・西九条のミニコミ書店「シカク」の広報担当も務める。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』、『遅く起きた日曜日にいつもの自分じゃないほうを選ぶ』(共にスタンド・ブックス)、『「それから」の大阪』(集英社)、『酒ともやしと横になる私』(シカク出版)『思い出せない思い出たちが僕らを家族にしてくれる』(新潮社)。パリッコとの共著に『酒の穴』『酒の穴エクストラプレーン』(シカク出版)、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』(ele-king books)、『“よむ”お酒』(イースト・プレス)、『ご自由にお持ちくださいを見つけるまで家に帰れない一日』(スタンド・ブックス)。

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