読んでは忘れて

第58回 岸政彦 編『大阪の生活史』

岸政彦 編『大阪の生活史』天気のいい日中、近所の川べりまで歩いてぼーっと過ごす。今はまだ冬だが、陽が出ていさえすれば、割と長く居られる(それなりに厚着もしているし)。

最近は『大阪の生活史』を持っていく。1271ページある分厚くて重たい本なのだが、私がよく行く川は家から歩いて5分ほどの距離なので、持っていける。その厚みのある本の、どこかのページを運任せで開き、出てきた聞き取りの始めから読むことにしている。

『大阪の生活史』は社会学者の岸政彦さんが監修し、『東京の生活史』『沖縄の生活史』に次いで、2023年11月に刊行された本である。

150人の聞き手が、150人の語り手から話を聞く(手前味噌ながら、私も聞き手の一人として参加した)。語り手には、生まれも育ちも大阪だという人もいれば、なんらかの事情で大阪に来ることになった人、かつて大阪に住んだことがあるという人など、それぞれの形で大阪に関わる人が選ばれている。

そして聞き手と語り手のやり取りが、一人分およそ1万字のボリュームで収められている。語り手の名前が明らかにされているケースもあるが、ほとんどは、聞き手の名前だけが明記されていて、語り手がどこの誰なのかはわからない。聞き手が誰かもわからない。聞き手、語り手とも、プロフィールのようなものはこの本の中にはない。

原則的には、聞き手の問いかけとそれに対応する語り手の言葉が続くだけである。だが、読んでいると、聞き手と語り手の関係性がなんとなくわかってくる。語り手がどんな人生を送ってきて、どんな風に生活しているかも、少しはわかる。ぼんやり浮かんできたイメージが少しずつ明確になっていくような、その感覚が面白い。

「読んでは忘れて」第58回

数日前に開いたページは木下拓也さんという方が聞き手をしている部分(336ページから始まる)で、やり取りの中で「かずま」と呼びかけられている語り手は在日コリアン3世の男性で、30歳ごろにきっかけがあって恋愛の対象が男性になった(でも語っている現在は恋愛対象の性別について“全然、こだわってない”と言っている)らしいことがわかる。

“二重の意味でマイノリティ”として感じてきたことが語られ、日本と韓国についての思いが語られ、自分の家族についても語られる。“父親はどんな人だった。”という聞き手の質問から始まって、父と母の出会いと結婚に至るまでの話になっていくのだが、語り手が幼い頃に亡くなったらしい父親は“お金とかに欲がまったくない人。めっちゃ、ちゃらんぽらんやったらしい。”という。

“ほんまにお金ない人で、泊るところ、寝るところとかも、自分は働いてない、働いてるとかならましやけど、自分の働いてない知り合いの工場の階段の下やってん。”と、そこを寝床にしているような父に、お嬢様だった母が惹かれ、二人は結婚することになったそうだ。結婚式が行われた場所は知り合いの工場だったという。

それで、工場で結婚式で、手で飾り付けしたりとか。ウェディングドレスだけは、着させてくれと、お願いして。ウェディングドレスも、工場のトイレで着替えさせられたんやて。
トイレで、着替えとったんやけど、そのときに、お母さんが初めて泣いたらしくて。お父さんについて。
ウェディングドレス着んのに、水道の鏡って、顔しか映らんやん。
たち鏡も用意できひんのみたいなかんじで、大泣きしたらしいわ。じゃあ、お父さんが、ほなちょっと、たち鏡だけ買ってくるから待っとけって言って、たち鏡買ってきて、なんか、おかんも機嫌戻って、まあ、幸せに結婚したみたいかんじ。

と、語りはさらに続いていくのだが、この部分を読んでいて、ウェディングドレスを着た母親が自分の顔をトイレの鏡に映している姿が、ありありと目に浮かぶような気がした。

本書に収められた膨大な語りを読んでいて、そんな風に、ズドーンと胸に迫ってくる部分がある。それはどの語りにもあるわけではなくて、無いから物足りないというのでもなく、とにかく急に胸に迫ってくる。この感覚がなぜ起こるのか、法則性みたいなものがあるのか、考えてもわからない。

作家の柴崎友香さんと岸政彦さんが登壇される『大阪の生活史』の刊行記念イベントが大阪のロフトプラスワンウエストという会場で2023年の12月にあって、私も観覧しに行ったのだが、そこで柴崎友香さんが『大阪の生活史』を読んだ中で印象的だった部分をいくつか挙げていた。

そのうちの一つが、46ページから始まる阿部朱音さんという方が聞き手をしている部分の、

なんかいろんなこと覚えてますね。自然が多いところでね。もう半世紀ほど前、もっと前やったから、大阪でも田んぼが多かったんですね。二歳、三歳ぐらいのときは、近所の畑でレンゲ草摘んだり。その頃は野良犬もいてて、中型犬か大型犬みたいな野良犬が走り回ってたんです。動物は嫌いじゃなかったけど、楽しそうに遊んでるなと思いながら黙々と摘んでたら両前足で背中ぽーんてやられて。「背中トンされたー」と帰宅後母に報告してました。

というくだりだ。人生の大きなドラマ的なものとは関係のない、ささやかな記憶なのだが、柴崎友香さんはここにすごく感動したそうで、「この文章に出会えただけで人生やっていける」と、そんな風に語っていたとように思う。

なるほど、そう言われて読んでみると、野良犬が突然背中に両前足を乗せてきた、その感触までもがなぜかわかる気がしてくる。どうしてこういうことが起こるのだろう。

大阪の京橋という街にかつてダイエーがあって、それが後にイオンになって、2019年に閉店して今はもう無いのだが、そこにダイエー時代から長年勤めていた店員さんに密着したドキュメント番組を私はテレビで見た。

最終営業日の店内の様子やその店員さんの姿が映り、「今のお気持ちは?」というようなインタビューがあって番組が構成されていたのだが、その店員さんはダイエーがオープンした1971年当時のことを覚えていて、オープン直後に自分が客としてそこに行った時の話をしていた。

オープンしたばかりのダイエーはものすごい混雑ぶりだった。入口でオープン記念の風船を配っていて、それをもらったのだが、あまりに人が多いから、持っていた風船が押しつぶされて割れたのを覚えていると、そんな記憶を語っていて、それを聞いた時も、風船の割れるパーンという音と感触が生々しく思い浮かぶ気がした。

なぜだか覚えているささやかな出来事、というのはその人固有のもので、どこまでも固有であることこそ、遠くまで強く響くという、そういうことなのだろうか。

分厚い『大阪の生活史』を、私はまだまだ全然読み通せていないのだが、顔も名前も知らない誰かの人生がふいに自分のものとして実感されるような瞬間が、きっとこれから読んでいくうちにたくさんあるんだろうと思う。重たい本を持って、また川へ行こう。

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スズキナオ
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1979年生まれ水瓶座・A型。酒と徘徊が趣味の東京生まれ大阪在住のフリーライター。WEBサイト「デイリーポータルZ」「集英社新書プラス」「メシ通」などで執筆中。テクノラップバンド「チミドロ」のリーダーで、ことさら出版からはbutajiとのユニット「遠い街」のCDをリリース。大阪・西九条のミニコミ書店「シカク」の広報担当も務める。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』、『遅く起きた日曜日にいつもの自分じゃないほうを選ぶ』(共にスタンド・ブックス)、『「それから」の大阪』(集英社)、『酒ともやしと横になる私』(シカク出版)『思い出せない思い出たちが僕らを家族にしてくれる』(新潮社)。パリッコとの共著に『酒の穴』『酒の穴エクストラプレーン』(シカク出版)、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』(ele-king books)、『“よむ”お酒』(イースト・プレス)、『ご自由にお持ちくださいを見つけるまで家に帰れない一日』(スタンド・ブックス)。

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