読んでは忘れて
『PUBLIC HACK』

第9回 笹尾和宏『PUBLIC HACK』

『PUBLIC HACK』初めて目にする「PUBLIC HACK」という言葉。本書カバーのそでの部分には「公共空間において、個人が自分の好きなように過ごせる状況が実現すること」とある。また、サブタイトルに「私的に自由にまちを使う」とあるように、私たちひとりひとりが公共空間を、譲り合いつつ自由に使っていくためには何が必要かということを考察した本である。

著者の笹尾和宏さんとは何度かお会いしたことがある。本書では「PUBLIC HACK」の実践例の一つとして、私と酒場ライターのパリッコさんが二人で始めた「チェアリング」という遊びについて取り上げられており、詳しい話を聞きたいと笹尾さんが連絡をくれ、喫茶店で会ってお話しをした。

この書籍を手にとったのも、笹尾さんが時間をかけ、様々な資料と向き合いながらついに本を完成させたと知り、それで本を送ってくださったからなのだが、「チェアリング」のことを抜きに客観的に読んでも相当面白い一冊だった。読み終えて心が震えるような。

本書は、笹尾さんが吉祥寺の井の頭恩賜公園を通りがかり、その公園の原っぱで色々な人がそれぞれ自由にしたいことをしている姿が印象に残ったというエピソードから始まる。散歩をする人、ピクニックをする人、じゃれ合うカップル、円陣を作ってバレーボールをしているグループ、みんな、別々のことに夢中になりながら、お互いの邪魔にならぬよう配慮しつつ一緒にいる。そしてその光景を見て、笹尾さんは今の町に欠けているのはこういう風景だ、と思う。

幼稚園児が園庭で遊ぶ声が騒がしいと苦情が入り、園児の外遊びが制限されることすらあるように、今、都市部の住環境はどんどん窮屈になっている気がする。もちろん、これまで放置されてきた様々な声に耳を傾けていこうとする姿勢は絶対に必要で、なるほど確かに、お昼に眠ろうとする人もいて、その人たちにとっては園児の声は騒音と思えるのかもしれない、そこに目を向けることは大切だ。だが一方、そこで何かを禁止してしまう、ということがすべての答えなんだろうか、というのも疑問だ。

私たちのそれぞれに「走り回りたい!」「踊り出したい!」「静かに読書したい」「眠りたい」と、それぞれの欲望があり、それを完璧にさばき切る完全なルールは存在しない。それはその都度、ケースに応じて考え、対処するしかない。「文句が出たから、禁止する」というのは実は最低にチープな解決策で、だけどそれは話し合い続けるより楽なので、採用されることが多い。そうなると、なるほど、整然とした、シーンとした状況が生まれるのかもしれないが、そこは誰も愛着を持てない、何もない場所になってしまう。それでいいんだろうか……いや、「それでいいよ」っていう人も多いのかもしれないな。

本書の「Chapter1 もっと私的に自由にまちを使おう」を読むだけで、心の中に勇気がみなぎる。そこには、徐々にルール化され窮屈になりつつある公共空間の実情と、でも本当は“公共”という以上、そこは私のものでもあるのだ、ということが書かれている。「そうだった、私たちはそれぞれやりたいようにやりたいんだった」、そして、「私がやりたいことをするからには、私じゃない誰かのやりたいこともあり、折り合いをつけないといけないんだった」と、当たり前のことを随分長い間、思えないでいたことに気づかされる。

都会に住んでいると、たぶん多くの人は自分の中にある「あれしたい」「これしたい」という、生き生きと湧いてくる力を、暴力とみなして、抑えようとがんばることになる。そしてそれができない人は落伍者で、町を歩いていても電車の中でも、とにかくそういう人が怖いし嫌で仕方ない。行儀のわからない他人の存在が憎たらしい。そうなった空気の中では、公共の場所は、目的地までの、速やかに通り過ぎるべき場所でしかない。ずっと佇んで何もしてない人なんか不気味だし、さらに椅子を出して酒を飲んでる私なんか邪魔なゴミだろう。

だが、そうやって抑制に身を任せていると、公共の場所は消えていく。場所として残っても、少なくともそれはもう“公共”という意味を失う。この本を読んでいて何度も思うのは、「公共の場は、ちゃんと自由に使っていかないと消えていく」ということだ。抑制しようとする力に対し、つっぱり棒を伸ばすみたいに拡大していかなくてはいけないのだ。もちろんそれは、「他人に迷惑かけようぜ!」という意味では全然ない。本来していいはずのことを、誰かの足を踏んづけずにするというだけだ。

(と書いていても「やりたいことあるなら自分の家でやれば?」「どっか広い場所に行けよ」というように言う人だっているだろうな、と思う。だけどそう言いたい人は、公共の場、人が集まって何かが起きているような場所、誰かと誰かが思いもよらぬ形でいきなり出会える場所、自分が世界の一部であると思えるような場所、から何も得たことがない人だろう)

「読んでは忘れて」第9回

本の内容に戻る。公共空間の様々な利用方法が紹介されたあとの部分で、ある行為をしようとする「実践者」、その横を通っていく「傍観者」、行き過ぎた行為を制止する「管理者」という、3つの立場について説明されている。そして重要なのは、その3つの立場がいつも入れ替わるということだ。ある時に誰かを迷惑がった管理者も、ある時には公園でピクニックを楽しむ実践者になる。なぜか最近は、ツイッターを見ていても、ニュースのコメント欄を見ていても、管理者の立場からの発言ばかりが増長し、さも傍観者の声を吸い上げ切ったかのような姿勢で実践者を貶めようとするのが大ブームという気がする。

色々書きたいことがあふれ出て止まらないので、特に大事だと感じた部分を一か所だけ抜き出したい。

管理者が認めた行儀の良い人だけが公共空間を利用することを許されるようになると、公共空間は選ばれた人だけが利用できる、言わば会員制空間のようになってしまいます。そして同質化された従順な人ばかりが集まる公共空間では、自分自身が受け容れている不自由さ・他人に強いている不自由さに違和感を持たなくなり、他人が自由であることが受け容れられなくなります。そうして、自分たちに馴染みのない行為が目撃されると、通報して行為を制止するようになるのです。

私がこれを読んでいて、思うのは大阪城公園のことだ。大阪城公園は、私が大阪に引っ越してきた5年ほどの間でかなり変わった。民間企業が公園の開発に参画し、「JO-TERRACE OSAKA」という施設ができ、飲食店が多数入ったり、「COOL JAPAN PARK OSAKA」という大きなホールができたりした。その結果、今までまったくお金になっていなかったスペースが利益を生み、税収も増え、と政府は成功をアピールしている。確かに、綺麗なそれらの施設を楽しく利用している人も大勢いるんだろうけど、一方で公園とは、“何もしない人もいていい場所”なのだ。

大阪城公園には幸い広大な敷地があり、そうなった今でもまだまだ私のような何もしない人の居場所はいくらでも見つかるが、政府からしてみれば、公園は、「収益をあげられるのに活用できていない場所」と見えるんだろうということは確かだ。

弱気な私にとって、「窮屈になっていくんだろうな……あーあ」、としか思えないでいる日々。「何もしないでいられる」ということを守ろうと、立ち向かう心を持たせてくれるような本だった。

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スズキナオ
スズキナオ
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1979年生まれ水瓶座・A型。酒と徘徊が趣味の東京生まれ大阪在住のフリーライター。WEBサイト「デイリーポータルZ」「集英社新書プラス」「メシ通」などで執筆中。テクノラップバンド「チミドロ」のリーダーで、ことさら出版からはbutajiとのユニット「遠い街」のCDをリリース。大阪・西九条のミニコミ書店「シカク」の広報担当も務める。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』、『遅く起きた日曜日にいつもの自分じゃないほうを選ぶ』(共にスタンド・ブックス)、『「それから」の大阪』(集英社)、『酒ともやしと横になる私』(シカク出版)『思い出せない思い出たちが僕らを家族にしてくれる』(新潮社)。パリッコとの共著に『酒の穴』『酒の穴エクストラプレーン』(シカク出版)、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』(ele-king books)、『“よむ”お酒』(イースト・プレス)、『ご自由にお持ちくださいを見つけるまで家に帰れない一日』(スタンド・ブックス)。

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