読んでは忘れて
『日本の中のインド亜大陸食紀行』

第7回 小林真樹『日本の中のインド亜大陸食紀行』

『日本の中のインド亜大陸食紀行』大阪・天満の駅前の飲み屋街に「新多聞酒蔵」という立ち飲み店がある。何年か前に一度飲みに行ったことがあって、その時は確か、いかにも昔からある渋い立ち飲み屋の店主という雰囲気の男性が静かに働いておられたような記憶がある。余計なものがないシンプルな和風の立ち飲みだった。

それが、2年ほど前に店主が変わって店に大きな変化が現れた。新しい店主はマレーシア出身のハンさんという方で、地元の料理やタイ風の料理がメニューに並ぶようになった。「シンガポール焼きビーフン」とか「えびサンバル炒め」、「マレー風あじ煮アッサム」とか。料理はどれも美味しい。そしてそういうメニューがホワイトボードに「ハンちゃん料理」という項目でくくられて並んでいる横には、「ばあちゃん料理」と題して「アジフライ」や「かぼちゃ煮」などの、お店の方のお母さんが作ったらしき惣菜メニューもある。渋い立ち飲み然としたメニューとアジアン料理が普通に共存していて、交互に食べてみるのも楽しい。

大阪・京橋に「正宗屋」という酒場があり、こちらは大阪にいくつも店舗がある老舗チェーン系の居酒屋なのだが、この京橋店の名物は「トムヤムクン」だ。店主の奥さんがタイの方で、それゆえに出しているもので、「正宗屋」がたくさんある中でもここだけのものである。

そんな風に、人と人が出会い、その中に色々な国で育った人がいて、店や町が少しずつ変わっていく。そしてそれが、雑然としたカウンターで日本酒を飲みながら「トムヤムクン」を食べるような、これまでにない状況を生み、私はそれを面白いと思って過ごしている。

「読んでは忘れて」第7回

小林真樹『日本の中のインド亜大陸食紀行』は、私がお手伝いをしている大阪のミニコミ専門書店「シカク」で手に取った本で、阿佐ヶ谷書院というインディペンデントな出版社から2019年の5月に出版されたもの。

前書きによれば、著者の小林さんは1991年にインド・ネパールを旅して強烈に感化され、帰国後もそこでの経験が忘れられず、インド料理店や食材店などに足を運んではインド・ネパールの残像を探し歩くようになったという。

それが高じて、やがては地方都市の、例えば私はテレビ番組で埼玉県の八潮市にパキスタンから来た人々が大勢住んでいて「ヤシオスタン」と呼ばれる一大エリアができており、その辺りが紹介されているのを見たのだが、そういう、海外からやってきた人たちによって形成されている飛び地的なエリアまで足を伸ばして訪れるようになった。

「やがてこの手の特殊かつ味わい深い店を訪ね歩く行為そのものが、実際のインド周辺国への旅で感じるのとは別種の、新たな感動を与えてくれることに気づかされていきます」と前書きに書かれている通り、そこにはインド周辺で経験するものとはまた違う面白みがあった。そして探せば探すほど、日本の中にそのような場所や店はたくさんあるのだ。

320ページもある大著なのだが、きっとこの本で紹介されているのはまだまだ“日本の中のインド亜大陸”の一部なのだろうと思う。

それでも十分、日本の中に生まれつつある様々なインド亜大陸カルチャーが丁寧に取り上げられていて、そもそもインド料理を普段から食べつけているわけでもない自分にとっては知らないことの連続過ぎてクラクラする。「ここのお店が美味しい!」などという情報よりも、もっとその奥にある、なぜその場所で商売を始めたのかを食材店のオーナーに聞いたインタビューや、在日ネパール人のコミュニティイベントの模様をレポートしたものだとか、そういった部分に焦点が当たっており、時代や社会の動きともリンクしてくるような内容になっている。

例えば、首都圏ではここ数年、南インド料理店が増えているそうなのだが、その理由の一つには「IT系の技術者として2000年前後から来日している」南インド出身者が副業として始めるケースが増加していることがあるという。それらの店は、副業ゆえに日々の売り上げにそれほど追われず、そのためにオーナーの理想が柔軟に反映されたものが多かったりするという。

もちろんインド周辺国の料理そのものに関しても様々な角度から語られているのだが、「家庭料理」を紹介しているのが面白い。小林さんは、知り合ったインド出身者の家に招かれ、手料理をふるまってもらっている。もちろん、コミュニケーションを重ねた上でかなり信頼されなければこんなことはできない。そしてそこでいただく家庭料理には、当然ながら店舗では食べることのできない味わいがあるのだという。

この本を読んでいると、海外労働者に関して国が敷いた制度によって作られていく流れとは別に、もっとローカルな、力強いエネルギーで文化が混ざり合っていく様に勇気づけられる気がする。日本にあるインドやネパールやパキスタン料理の専門店の中だけでなく、海外から日本に来て暮らす人々の家のドア一枚一枚の中で、こうしている今も、現地の味覚と日本の食文化とが出会い、新しい料理が生まれているのかもしれない。

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