読んでは忘れて
川口有美子『逝かない身体』

第2回 川口有美子『逝かない身体―ALS的日常を生きる』

川口有美子『逝かない身体』前回の『弱いロボット』に続き、この本も医学書院という医療系の本を作っている専門出版社の「ケアをひらく」というシリーズの一冊。最近このシリーズの本がどれも今の自分にとって必要なものに思え、どんどん読んでいる。

著者の川口さんのお母さんは、1995年頃に体の不調を訴え、ALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断される。今パッと調べた検索結果を引用すると、ALSとは、「脳や末梢神経からの命令を筋肉に伝える運動ニューロン(運動神経細胞)が侵される病気」で、今私たちが手を動かそうとして動かすことができる、その行為がしづらくなったり、さらに病気が進行するとまったく動かせなくなったりする。治療法の確立されていない難病だ。

運動神経が侵されても、五感には障害がないという場合が多く、つまりインプットはあっても外の世界に働きかけることができないという状態になるのだそうだ。運動神経が徐々に衰えようとも、例えば、手や足が少しでも動かせれば、誰かの質問に対してYESかNOかという意志を示すことができる。手足が動かなくなっても眼球が動けば、その動きを使って意志の疎通が図れる。しかし、さらに症状が進行するとすべての筋肉を動かすことができなくなる場合があって、この、完全にコミュニケーションが取れなくなる状態をTLSと呼ぶ。これは「完全な閉じ込め状態」を意味する言葉の頭文字をとったもの。想像の及ばない世界だ。

著者の母はALSが進行し、症状が進んでTLS状態になりながらも、発症から12年間生きる。その間の介護の日々や、そこでどんなことを考えていったかが綴られているのがこの本だ。と、ここまで書く途中にも、この本のことを何か語る資格なんか自分には無いと何度も思うのだが、なんとか頑張る。

自宅で介護をする場合、最初は人の手を借りながらなんとか自分でトイレに行ったりできていたところから、どんどん筋肉が思うように動かなくなり、そのための介助設備を家の中に工事して作ったりしても、そのうちそれを使うこともできない状態になって、と、進行具合によって介助の仕方も次々に変更を迫られる。サポートする側もすごく疲弊する病気だ。介護者も疲れ果て、患者も、もうこんなに迷惑をかけてまで生きていたくないと思うことが多いようだ。著者の母も、眼球を動かして何度も「しにたい」というメッセージを伝えてくる。

それでも著者は母の体は生きたがっていると考え、ついにはTLSとなって一切コミュニケーションが取れない状態になっても、一日でも長く母が生きることを願って看病し続ける。まだギリギリ動かすことのできた眼球で母が最後に伝えた言葉は「な」と「す」という2文字で、最初はそれがなんのことなのかわからなかった著者が、ふと、以前、横たわっている母のそばで自分が何気なく「うちのキッチンってどこのメーカーのだっけ?」というようなことを言ったのを思い出す。それを母が覚えていて、「ナスステンレスのキッチンだよ」と伝えようとした、その「な」と「す」だったのだと気がつく。内容的には他愛のないその最後のやり取りも、著者はそれを天から降りてきた言葉のように大事に受け取ったことがわかり、読んでいて心が揺れる。

「読んでは忘れて」第2回

ALS患者の母を持つ者として、同じ病気を抱える他の患者とも知り合うことになった著者が、ALS患者のベテランの橋本みさおという人に会う。自分の母がついにTLSになってしまったと伝えると、「根性がないからTLSになるんだ」というメッセージが返ってきてショックを受けるという場面がある。「私の母に根性がなかったっていうこと?ひどすぎる」と、その場では思うのだが、時間をおいて、ある時、自分がその言葉の真意を取り違えていたことに気づく。「患者をTLSにしてしまうのは介護者に根性がないからだ」という意味の発言だったと。つまり、たとえ言葉のやり取りが叶わなくなっても、こちらが諦めさえしなければ、何らかの意志を受け取ることはできるはずだというのだ。

その後、言葉のやり取りという意味でのコミュニケーションが取れなくなった母でも、例えば部屋が暑ければ汗をかく。その発汗からも何かを読み取ることができる。血圧の上がり下がりだって何らかのメッセージとして受け取れる。顔に赤みがさせば何かでストレスを感じているということかもしれない。そういう日々の受け取りの先に、著者は母を介護することを「温室でランの花を育てるようだ」と考えるようになる。植物が人間の言葉で語りかけてくることはないけど、生きているということ自体がそれだけでかけがえのない意味だ。

この本に書かれている言葉を読んでいると、自分が日頃コミュニケーションだと思っているものが、色々ある形の中の一つでしかないと感じる。植物状態になったら死んでいるのと同じ、とか、ただ延命をさせているだけの状態ならさっさとそれを打ち切った方が医療費の節約になる、みたいな考え方がいかに単純で浅はかなものかと思い知る。

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スズキナオ
スズキナオ
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1979年生まれ水瓶座・A型。酒と徘徊が趣味の東京生まれ大阪在住のフリーライター。WEBサイト「デイリーポータルZ」「集英社新書プラス」「メシ通」などで執筆中。テクノラップバンド「チミドロ」のリーダーで、ことさら出版からはbutajiとのユニット「遠い街」のCDをリリース。大阪・西九条のミニコミ書店「シカク」の広報担当も務める。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』、『遅く起きた日曜日にいつもの自分じゃないほうを選ぶ』(共にスタンド・ブックス)、『「それから」の大阪』(集英社)、『酒ともやしと横になる私』(シカク出版)『思い出せない思い出たちが僕らを家族にしてくれる』(新潮社)。パリッコとの共著に『酒の穴』『酒の穴エクストラプレーン』(シカク出版)、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』(ele-king books)、『“よむ”お酒』(イースト・プレス)、『ご自由にお持ちくださいを見つけるまで家に帰れない一日』(スタンド・ブックス)。

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