読んでは忘れて

第28回 荒井裕樹『まとまらない言葉を生きる』

「まとまらない言葉を生きる」というタイトルを見て、いい本に違いないと思って買った。読んでみると、いい本だった。

著者である荒井裕樹さんは大学の准教授として文学を教えている方なのだが、障害者文化論を専門にしていて、身体に様々な障害を持つ人々との対話を通じて言葉の意味を考えてきた人である。文学作品の研究者というよりは社会と文学、社会と言葉との関わりを中心に研究しているようだ。

その荒井裕樹さんがポプラ社が運営するWEBメディアで2018年から2019年にかけて毎月連載していたコラムをまとめ、大幅に加筆修正を加えたものがこの本だ。

全部で18のコラムから成っていて、一つ一つのコラムは、荒井さんが心のよりどころにしている言葉が軸になって展開される。荒井さんが直接誰かから聞いた言葉もあれば、読んだ本の中で出会った言葉もある。それらの言葉はどれも、ここに抜き出したからといって偉人の名言みたいにパッとわかった気になれるものではない。だが、あっちに行ったりこっちに行ったり、まとまらない考えを肯定してくれるような言葉ばかりだ。

「あとがき」で荒井さんが、自分が言葉に接する姿勢について「要約すること」と「一端を示すこと」の二つを使って説明している部分がある。たとえば、ある問題のことを誰かに伝えようとする時に、それを全体的にとらえて要約する場合がある。文学の研究者だったら「この文学作品のどこが優れているのか」ということを短く的確な言葉で表現したりすることがあるだろう。だけど、荒井さんがこの本の中でやろうとしているのは、「一端を示すこと」の方で、言葉をめぐる問題について明快な答えを出すのを目的としているのではなく、「このような深い問題がある」と伝え、あとは読み手に託すということだ。

その「あとがき」の一部を抜き出してみたい。

 最近、この社会は「安易な要約主義」の道を突っ走っている気がしてならない。とにかく速く、短く、わかりやすく、白黒はっきりとして、敵と味方が区別しやすくって、感情の整理が付きやすい。そんな言葉ばかりが重宝され、世間に溢れている。
 この一因には、SNSが存在するのは間違いないだろう。確かにSNSの情報は速くて助かる。ぼく自身、普段からその便利さを享受している。
 でも、SNSのフレームに切り出された言葉は、物事の緻密で正確な「要約」になっているかというと、やっぱりそうでもないことが多い。ぼくらが毎日見ているあれらの言葉が、正確な「要約」でも、世界の一端でもないとしたら、果たして正体はなんなんだろう……。

と、ここで語られているように、実は「要約」にはなっていない“要約らしきもの”がSNSにはあふれていて、パッと見で伝わる、派手で声高なものが、“まとまらない言葉”をおさえてバズり、拡散していく。荒井さんがこの本に綴っている文章は、どぎつい印象と勢いとで拡散していく要約らしき言葉への徹底的な抗いのように思える。簡単そうな答えに寄りかからず、しぶとく堂々巡りし続けるような反抗の姿勢だ。

たとえば第一話「正常に「狂う」こと」では、ハラスメントの被害者に対して投げかけられる「やめてって言えばよかったのに」「被害を訴えればよかったのに」という言葉がテーマになっている。誰でも簡単に言えて、ちょっと上から目線で何か言ったような気分になれる言葉。しかし、まわりまわって自分の首を絞め、世の中を息苦しくするような言葉だ。誰だって、何か嫌なことされたときになんとなくその場では拒絶できなかったという経験を持っているはず。ハラスメントには「やめてって言わなくさせる」「被害を訴えづらくさせる」ような力関係が内在していて、だからこそ被害者を窮地に追い込む。

第十四話「「黙らせ合い」の連鎖を断つ」では、やはり世界を息苦しくさせる言葉として「自己責任」が取り上げられ、その言葉がいびつな社会制度に苦しめられている人たちを黙らせるものだということが語られる。

Twitterを見ていたら、政府の方針に対して異を唱える意見に対して「嫌なら出ていけばいいのに」というような主旨の心無い言葉が結構頻繁に目に入ってくる。なんで嫌なら出ていかないといけないんだろうか。あちこち違う部分を持った人たちができるだけ生きやすい社会を作ろうとする思いが「この国にいるお前が悪い」という言葉ではねのけられる。いつも思うのだが、この「出ていけばいい」という言葉を発する人たちは何かを我慢したり、社会の制度のどこかについて「あれはおかしい」と感じたことがないんだろうか。

健常とされる元気な人だって、生きていたらケガをしたり病気になったりする。ちょっと体の具合が悪くなっただけで生活が困難になったり、働けなくて収入が減ったり、そういう状況を十分にフォローしてくれない制度の至らなさに気づいたりする。その時、それは自己責任だからあきらめるしかなく、嫌なら出ていくしかないんだろうか。いつか、強者としてふるまう自分が発した言葉が、弱った自分を仕留めにくる。必ず。

第六話「「相模原事件」が壊したもの」の中で、荒井さんは被告人が厳正な裁判を受けることは当然としつつ、そのたびに被告人の「障害者は生きている意味がない」という主旨の証言がメディアに取り上げられ、SNSに流れ、少なからずその主張に同調する人々の存在をあらわにすることに不安を抱えていると書いている。少し長くなるが、それに続く部分を抜き出したい。

 「障害者は生きる意味がない」という言葉を批判しようとすると、ともすると、反論する側に「障害者が生きる意味」の立証責任があるように錯覚してしまうことがあります。
 私自身も、時折そのような錯覚を覚えるのですが、冷静に考えてみれば、これはとても理不尽なことです。
 私たちが議論しなければならないのは、「障害の有無で人を隔てることなく、共に生きるためには何が必要か?」という点です。
 しかし、「障害者は生きる意味がない」という言葉に反論しようとすると、論点が「障害者が生きる意味とは何か?」に変りかねない怖さがあるのです。
 当たり前のことですが、「人が生きる意味」について軽々に議論することはできません。障害があろうとなかろうと、人は誰しも「自分が生きている意味」を簡潔に説明することなどできないと思います。「自分が生きる意味」も、「自分が生きてきたことの意味」も、簡略な言葉でまとめられるような浅薄なものではないからです。

この部分に、荒井さんが「簡潔に説明することなどできない」ものについて考えている、その姿勢の一端が見える。「生きる意味」だの「人としての価値」だの「生産性の有無」だの、そんな一生かけてもわからないようなことに対する答えを強いてくるような社会に少しでも抗うために、まとまらない言葉を手放してはいけないのだ。

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1979年生まれ水瓶座・A型。酒と徘徊が趣味の東京生まれ大阪在住のフリーライター。WEBサイト「デイリーポータルZ」「集英社新書プラス」「メシ通」などで執筆中。テクノラップバンド「チミドロ」のリーダーで、ことさら出版からはbutajiとのユニット「遠い街」のCDをリリース。大阪・西九条のミニコミ書店「シカク」の広報担当も務める。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』(スタンド・ブックス)、『酒ともやしと横になる私』(シカク出版)、パリッコとの共著に『酒の穴』(シカク出版)、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』(ele-king books)、『“よむ”お酒』(イースト・プレス)。

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