読んでは忘れて

第45回 香山哲『香山哲のプロジェクト発酵記』と斎藤幸平『人新世の「資本論」』

香山哲『プロジェクト発酵記』ドイツ・ベルリンに移り住み、そこでの暮らしやその中で感じたことを『ベルリンうわの空』というシリーズで描いてきた漫画家の香山哲さん。その香山さんが全3冊に渡る『ベルリンうわの空』シリーズを描き終えた後に始めた連載が『香山哲のプロジェクト発酵記』だ。

『香山哲のプロジェクト発酵記』は、『ベルリンうわの空』シリーズの完結後に「次の連載ってどうしますか?」と担当編集者に聞かれた香山さんが「その連載の準備を連載してもいいですか?」と答えて(実際は答えるまでに数か月の時間が経過しているのだが)、そして始まったものであるようだ。

“連載の準備の連載”とはつまり、「連載」という、漫画家としての仕事をしていく上で大きなプロジェクトを始めるにあたってどんな風にアイデアを練り上げ、準備を進めていくかというその過程をそのまま詳らかにしていく連載ということである。

だからこれは漫画作品というより、たとえば「マンガの書き方」みたいな本に近いかもしれない。パッとページを開いても、いわゆる漫画的なコマ割りがないページも多くて、香山さんが考えたことが、考えた順に、絵と文章のそれぞれの長所を生かして表現されている感じである。

で、そもそも香山さんの漫画が好きな人であれば、あの漫画がどういう風な思考の結果として生まれているかが知れるのだから絶対に面白いはずで、ぜひ読んで欲しい(というか、言われなくても読んでいるだろう)。私は今、この本を手に取ったり検索したりしたものの「もしかしたらこの本って自分に関係ないんじゃないだろうか」と思う人がいるかもしれないと想像し、その人に向けて伝えようとしている。

まず、この本は香山さんが新しい連載に向けて考えを練っていく過程を描いたものではあるのだが、香山さんの漫画を知らなくても、ひょっとしたら漫画そのものに興味がなくても、楽しく読めるのではないかと思う。第1章のタイトルが「人生はプロジェクトの連なり」となっていることからもわかる通り、香山さんは自分の漫画連載というプロジェクトについて考えているけど、それは私たちの人生の様々な大きなプロジェクト、受験、就職・転職、結婚、転居などなど、とも重なり響き合う。

じっくり考えて臨んだ方がよさそうな“大ごと“を、我々は生きていたら結構たくさん経験するのだから、つまり我々はみんなこの本に関係があるのだ。香山さんは自分の例を通じて、あらゆる大きなプロジェクトに立ち向かう時に「こう考えるといいっぽい」というノウハウを、わかりやすく紹介してくれている。

実際、私の仕事はフリーライターなので、たとえば香山さんがこの本の中で、新連載に出てくる登場人物たちを考えていくくだりがあるのだが、まったく同じようなことを考えることが自分にあるかというと、ない。だが、香山さんが登場人物のバリエーションを考えていく過程で、自由に発想していく「散らかし」と、それにエッジ(特性)をつけていく「片付け」を繰り返していくという、その部分は自分が仕事上のアイデアを練る部分にそのまま応用できそうだ。そんな風に、「あ、ここで言っているのは自分の人生におけるあれと近いな」と、自分に引き寄せて読んでいける余地がある。

この本を何度か読んで私の中に一番強く残っているのは「自分を尊重しよう」という態度である。何かのプロジェクトを実行しようとする時、私たちは皆等しく「寿命」を使っている(この本の中には「寿命」という言葉がよく出てくる)。いつだって私たちは限られた時間をプロジェクトに捧げているのだ。

と、そう考えると、自分にとって意味のないプロジェクト、自分を幸せにしないプロジェクトに寿命を使いたくはないと当然思う。であれば、少しでも自分にとっていい何かをもたらしてくれるプロジェクトに、自分に無理な負担のかからない形で取り組みたいと思うはず。また、プロジェクトに関わってくれる他者がいるとしたら、当然その人たちも自分と同じように尊重しなければならないだろう。自分を犠牲にする、他人を犠牲にする、そういったことのないプロジェクトが目指されるべきなのだ。

香山さんはこの本の出版にあわせて「選書フェア」を開催していて、いくつかの書店で実際に展開されているのだが、リストがアップされているので、その場に行けない人も、フェアに参加できる。
(以下のリンクは選書リストのPDFで、印刷したりもできます)
http://dogmabooks.sub.jp/com3/wp-content/uploads/2022/11/1111_mihon.pdf

私はこのリストから、すでに持っていた本以外を買い集めて少しずつ読んでいるのだが、その中で最初に読み始めた斎藤幸平『人新世の「資本論」』(著者の斎藤さんは『香山哲のプロジェクト発酵記』に帯コメントを寄せてもいる)がいきなり面白かった。

斎藤幸平『人新世の「資本論」』冒頭、地球の環境資源は有限で、今の資本主義経済はその資源を完全に使い果たす方向に突進していることが語られる。よく聞くSDGsとか二酸化炭素の排出を抑えるとか、取り組みとしてはもちろん無意味ではないけど、それだけで、資本主義経済の成長を維持したまま地球の環境を守るということは無理だ。もう無理なところまですでに来ている。

そこで斎藤さんはマルクスの残した膨大な資料(『資本論』みたいに有名な著作以外にも、手紙とかメモとか、そういうものがすごくたくさんあるという)から、晩年に至るまでのマルクスの思考の変遷を読み解き、そこから、このままでは破綻してしまう地球環境をどうすれば守っていけるかを考えていく。

その結果、斎藤さんは「脱成長経済」が必要だと提案しているが、それはこれまでに培われてきた技術や都市の生活を捨てて農耕生活に戻れというのではなく、仕事や生活の質を変え、行き過ぎた部分を修正していこうというものである。

わかりやすい例でいえば、労働時間を短縮し、自分の仕事を生きがいを見いだせるようなものに近づけていくこと。資本主義が煽り続ける過剰な購買欲求に背を向けることなど。自分ができることはほんの少しに見えても、それが大きな数になれば、過剰な商品の生産だとか、そのために必要な過剰なエネルギー消費なども減少して……と、それは簡単なことでないのだろうけど、少なくとも読んでいて自分の仕事や生活を見直すきっかけにはなる。

香山さんの『香山哲のプロジェクト発酵記』も、斎藤さんの『人新世の「資本論」』も、仕事に追われ、それでも最低限の生活費しか稼げないような状況が当たり前になっている今をどうやったら変えられるか、どうやってそういう大きな流れに抵抗していくかを考えている。そう、どう考えたっておかしいことばかりじゃないか。私たちの仕事や生活は、なんでこんなに息苦しかったり、むなしかったりするんだろう。もっと自分と他人を尊重して生きていけるはず、そうできるように少しずつでも変えていこうと思える勇気が湧いてくる2冊だった。

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1979年生まれ水瓶座・A型。酒と徘徊が趣味の東京生まれ大阪在住のフリーライター。WEBサイト「デイリーポータルZ」「集英社新書プラス」「メシ通」などで執筆中。テクノラップバンド「チミドロ」のリーダーで、ことさら出版からはbutajiとのユニット「遠い街」のCDをリリース。大阪・西九条のミニコミ書店「シカク」の広報担当も務める。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』、『遅く起きた日曜日にいつもの自分じゃないほうを選ぶ』(共にスタンド・ブックス)、『「それから」の大阪』(集英社)、『酒ともやしと横になる私』(シカク出版)『思い出せない思い出たちが僕らを家族にしてくれる』(新潮社)。パリッコとの共著に『酒の穴』『酒の穴エクストラプレーン』(シカク出版)、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』(ele-king books)、『“よむ”お酒』(イースト・プレス)、『ご自由にお持ちくださいを見つけるまで家に帰れない一日』(スタンド・ブックス)。

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