読んでは忘れて

第43回 武田砂鉄『べつに怒ってない』

武田砂鉄『べつに怒ってない』初めて武田砂鉄さんの本を読んだ時(『紋切型社会――言葉で固まる現代を解きほぐす』という本だった)、「なんて意地悪な文章なんだ!」と思った。読んでいる自分が安全圏にいられないような、刺さってくる感じがあって、油断できない。

そのように最初に感じたのに、私はそれからも武田砂鉄さんの本を買って読んだ。そして武田さんの文章を読む経験が自分の中に蓄積していくごとに、最初の自分の印象が浅はかだったなとどんどん強く思うようになった。

最新刊の『べつに怒ってない』は『日経MJ』に連載されたものの中から選りすぐったエッセイが123本も収録された本で、一篇ごとは見開き1ページに(ということはつまり左右の2ページに)収まる文章量だからパッパッと読んでいける。随所に笑いがあって、実際、私は笑いながら読んでいるのだが、しかし、ページを開いたままぼーっとさせられることが何度もある。

ここに書き留められている細かなことを、いかに自分が「まあ、世の中ってそういうもんだろう」みたいになあなあに済ませてしまっていることか、と思うのだ。

たとえば「謙遜の上積み」という一篇にこうある。

豪邸訪問と題し、芸能人の家を訪ねる番組で、わざわざ「たいしたことない家ですので……」と謙遜する人がいて、それ、いらないよ、と思う。

そんなに親しくない人と会うとき、最初の数分は謙遜の応酬になる。謙遜で探り合う。先日はどうも。いやいやこちらこそ。より良い謙遜をぶつけた方が勝ち、みたいになって、それってもう我欲じゃん、と気付く。なら、最初から我欲でいいじゃん、と思ってしまう。

本当にそうなのである。私が記事を書いている「デイリーポータルZ」というコラムサイトの編集長の林雄司さんが以前「へりくだった物言いをする人に対して、こっちがそれを一回否定しないといけないのが面倒だ」というようなことを、もっと優しい言い方で書いていて、読んでいて一緒に思い出した。

謙遜し合うあの無益な行為、自分は意識していてもまだ結構やってしまうのだが、いかにも会社員っぽい文化だなと思う。「貴社様に比べたら弊社なんてもう」「いや、そちらはすごいですよね!こっちなんか全然」みたいな。そんなことしている暇があったらさっさとお互いの仕事の話を進めた方がいいだろうと思うのだが、どうしても反射的に出てしまう時がある。

「読んでは忘れて」第43回

あるいはこれ。「コップが濡れる」という一篇。

喫茶店で最初に配られる、水の入ったコップ、あれが最初からやたらと濡れていて、テーブルに水滴を残すのが気にくわないのだが、コップはもう、「ええ、濡らしますよ」と開き直っている。そんなに濡らすくらいなら水なんていらない、と断ることはしない。やっぱり水は欲しい。だから、いつもテーブルが濡れる。頼んだコーラにはコースターがあっても。水にはないのだ。だから濡れる。

これも本当にそうなのである。まわりについた水滴がテーブルの上を濡らすから、紙ナプキンで拭いて、拭いた後のぐしゃぐしゃのそれをお手製コースターとしてコップの下に敷いたりして、それがまったく美しくないのだ。そんな経験をこれまで何度も繰り返してきたはずなのに、この文章に出会うまでまったく意識したことがなかった。喫茶店のコップとはこういうものだと当たり前に考え、そこで立ち止まることがなかったのだ。

「マットの耳」という一篇は、学校の体育館で前転したり後転したり、跳び箱を飛ぶ時などに敷いたマット、あのマットについていた持ち運び用の「耳」のことをふと思い出した、という話である。

マットの耳のように、「完全に忘れていたけど、その言葉や存在や風景を思い出した途端、一気に感触までよみがえるもの」が、まだまだあちこちにあるのかもしれない。

と武田さんは書いているのだが、まさに本書こそ、日々の中で自分がスルーし続けていること、すっかり忘れてしまっていることに一つ一つ改めて向かい合わせてくれるようなものであると思う。自分の謙遜グセについても、喫茶店のコップについても、マット耳についても、この本によって意識されたし、「自分にもこんな風に書けることがないだろうか」と思いながら生活すると、身の回りを慎重に見るようになる。

と、そう書きつつ、スマホに作った私の「べつに怒ってないメモ」は、一向にたまっていかなくて、相変わらずぼんやり生きてしまっているなーと思い知らされるのだが。

※2022年8月27日(土)、武田砂鉄さんとのトークイベントが開催されます!
会場での観覧チケットは売り切れてしまったのですが、オンラインでの視聴も可能!そっちは9月10日(土)まで購入できるそうです!
https://lateral-osaka.com/schedule/2022-08-27-4978/

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スズキナオ
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1979年生まれ水瓶座・A型。酒と徘徊が趣味の東京生まれ大阪在住のフリーライター。WEBサイト「デイリーポータルZ」「集英社新書プラス」「メシ通」などで執筆中。テクノラップバンド「チミドロ」のリーダーで、ことさら出版からはbutajiとのユニット「遠い街」のCDをリリース。大阪・西九条のミニコミ書店「シカク」の広報担当も務める。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』、『遅く起きた日曜日にいつもの自分じゃないほうを選ぶ』(共にスタンド・ブックス)、『「それから」の大阪』(集英社)、『酒ともやしと横になる私』(シカク出版)『思い出せない思い出たちが僕らを家族にしてくれる』(新潮社)。パリッコとの共著に『酒の穴』『酒の穴エクストラプレーン』(シカク出版)、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』(ele-king books)、『“よむ”お酒』(イースト・プレス)、『ご自由にお持ちくださいを見つけるまで家に帰れない一日』(スタンド・ブックス)。

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