読んでは忘れて

第29回 ひうち棚『急がなくてもよいことを』

ひうち棚『急がなくてもよいことを』私が大阪のミニコミ専門書店「シカク」の店番を手伝うようになって間もない頃、店の棚から手に取って読んだのが『山坂』というタイトルの同人誌だった。『山坂』は、山坂ヨサンセンというユニット名で活動する二人組のマンガ家が「山坂書房」という出版レーベルを立ち上げ、自分たちの作品を発表する場として作った同人誌で、2008年に創刊号が出たらしい(創刊号は50部しか刷られていないそうで、私は現物を見たことはない)。

2021年現在までに第八号までが出版されている『山坂』の中で、私が初めて読んだのは2014年に出た第七号だったと思う。6人の作家が参加しているのだが、特に大西真人と木下竜一という人の作品のトーンの静けさが印象的だった。ストーリーはあってないようなもので、そのかわり、風景、情景を徹底的に自分の感覚に忠実に描こうとしているようだった。

「こんな渋い同人誌があるんですね!」と驚く私に、シカクの店長が「『山坂』、いいですよね!」とバックナンバーを何冊か読ませてくれた。参加者の顔ぶれは毎号少しずつ違うが、不思議と一貫した空気感があった。電車の窓から遠い景色を眺めている時のような、心が日常から浮かび上がっていくような気分が残る。

その『山坂』を創刊した山坂ヨサンセンの一人が「ひうち棚」さんである。そしてそのひうち棚さんがこれまでに描いてきた作品を集めたものが今回紹介したい『急がなくてもよいことを』だ。収められている作品の中には『山坂』に発表されたものもあれば、数人のマンガ家が集まって単発的に作ったらしい同人誌に向けて描かれたもの、月刊誌『コミックビーム』に掲載されたものもある。2009年から2021年にかけて描かれた18の作品が収録されている(中には当初「三好吾一」という名義で発表されていたものもあるから少し複雑だ)

作品によって少しずつ画風は違えど、その場にあった風景、その場に流れていた時間を書き留めることにエネルギーが注がれている点は共通している。その徹底した姿勢は、もはや「〇〇コア」みたいに名付けられたとしてもおかしくないほどにも感じられる。

「読んでは忘れて」第29回

たとえば『ユートピア』という短編では、主人公が富山県の高岡駅からレンタサイクルに乗って藤子不二雄『まんが道』の聖地めぐりをする様子が、ほぼセリフなしで、風景描写の連続によって描かれるのだが、強い日差し、ペダルを漕ぐ時に足に感じる抵抗、肌に風が吹きつけてくる感覚などが、自分がその場にいたかのような生々しさで想起される。作者が視線そのもの、感覚そのもの、時間そのものになって描いているような、突き抜けたものを感じる。

実際、点描にも近い細かなタッチでこのひとコマひとコマを描いている時、きっと作者は自分が自分を離れて風景自体になっているかのような気持ちだったんじゃないかと想像する。

瀬戸内海をフェリーで旅した時に見た風景を描いたという『フォトグラフ』という作品にはもはやストーリーはなく、セリフもなく、ただただ、写真が並べられたかのように場面が描写されていくのみだ。しかし、コマの中から音や匂いがあふれ出してくるようで、それを感じているだけで気持ちがいい。

『空白期間』という短編では、台所に立つ夫が夫婦二人分のインスタントラーメンと幼い子ども用のうどんを作っていく様子がじっくりと描かれる。この作品には親と子どもが言葉を交わす場面も出てきて、前述の『ユートピア』『フォトグラフ』より展開らしい展開があるが、油断して読んでいると、食事が終わって夫が食器を洗っている場面の後、唐突に何もない和室の隅が大きく描かれるページに驚かされる。「このコマ、何?」と思う。しかし、その次のページでは食事を終えた子どもがもう眠っているから、つまりこのコマは時間の移ろいをそのまま描いたものなのだろう。そうやって読み返すと、部屋の天井を描いた絵の中に、ゆっくりと時間が流れているように感じられてくる。

表題作の『急がなくてもよいことを』では、散歩してたどり着いた寺の門前に「急がなくてもよいことを あなたは急いでおりませんか」と一筆書いてあるのを主人公が目にし、幼い子どもに向かって「そんなに急いで大きくならんでもええからね」と声をかける場面が描かれている。作者はどうしても留めておくことのできない時の流れに対し、それがせめてマンガの中で生き続けることを祈るようにして描いているのではないだろうか。繰り返して読めば読むほど切実さが伝わってくる。

ちなみに私の手元には『急がなくてもよいことを』の初出掲載誌である『ヨット』という同人誌があって、これもまた山坂書房から2017年に発行された本なのだが、そこにひうち棚さんの作品と並んで掲載されている木下竜一、大西真人の作品も素晴らしくて、このお二人についても、いつか作品集としてまとめられたものを手に取れたらと願ってやまない。

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1979年生まれ水瓶座・A型。酒と徘徊が趣味の東京生まれ大阪在住のフリーライター。WEBサイト「デイリーポータルZ」「集英社新書プラス」「メシ通」などで執筆中。テクノラップバンド「チミドロ」のリーダーで、ことさら出版からはbutajiとのユニット「遠い街」のCDをリリース。大阪・西九条のミニコミ書店「シカク」の広報担当も務める。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』、『遅く起きた日曜日にいつもの自分じゃないほうを選ぶ』(共にスタンド・ブックス)、『「それから」の大阪』(集英社)、『酒ともやしと横になる私』(シカク出版)『思い出せない思い出たちが僕らを家族にしてくれる』(新潮社)。パリッコとの共著に『酒の穴』『酒の穴エクストラプレーン』(シカク出版)、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』(ele-king books)、『“よむ”お酒』(イースト・プレス)、『ご自由にお持ちくださいを見つけるまで家に帰れない一日』(スタンド・ブックス)。

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