古い絵はがきが好きで集めている。熱心に収集しているというほどではないのだが、雑貨屋や古道具屋に入って絵はがきが入った箱があれば中身を1枚ずつ見て、好きなものがあったら買う。
古い絵はがきならなんでもいいわけではなく、観光地の夜景を映したものが特に好きだ。夜祭りの様子を映したような、人がたくさんいて賑やかなものよりも、誰も映っていないものの方がより好きである。それらを部屋にあるポストカード用の分厚いファイルにストックしていく。そしてそのファイルをたまに開き、最初から最後までダーッと一気に見ていく。
右下に「長崎市内夜景」の文字のある白黒のもの、山形の蔵王の温泉街を高い場所から撮ったもの、ライトアップされる日光東照宮の五重塔、同じくライトアップされる原爆ドーム、万博開催当時の太陽の塔、どうしても日本のものが多いが、そういう中にモスクワの町並みとか、ニューオリンズのバーボンストリートという通りを映したものなどが挟まり、またその隣は東大寺の大仏殿の夜景だったりする。
様々な場所の夜景絵はがきを一気に眺めていると、世界中が同時に夜になって、各地に設置されたカメラがそれを映し、その映像がパッパッと切り替わっていくのを見ているような気分になる。誰もいない夜道を一人で歩いている時のような寂しさも少し感じるが、体の力が抜けてどこまでも落ち着いた気分が広がっていく。
夜景の絵はがきもそうだし、定点観測カメラの映像も昔から好きだった。夜中、深夜番組の放送も終わり、何も流すものがなくなったらしいテレビ画面に、どこかのビルの上からどこかの道路を撮ったような映像が流れる。たまに車がこっちから向こうに、向こうからこっちへと走り去っていくだけの映像。
何があろうとなかろうとただ黙々と対象を映し続けるような“ドライなカメラ”が私は好きなのだ。柴崎友香『百年と一日』にこんな場面がある。
急行列車の停まらない駅が見える場所に建つ家の前の空き地で、学校をさぼった中学生が三人で駅の方を眺めている。空き地の裏にある家はその三人のうちの一人の祖母の家である。
家の持ち主の孫と、孫ではない二人が、「駅に急行電車が停まれば遠くにいけるのに」「行ったって金がないからなにもできないよ」「見るだけでも楽しい」「そんなにほしいものってなんだよ」みたいな会話をしている。そのやり取りの後の場面。
一人が、立ち上がって言った。
「なに言ってるのか、全然わからない。急行はどこかの駅には停まるし、行きたければ行けるし、行きたくなければ行かなくていいし、なにかわからないものがほしいってどういうことかわからない」
「わからないわからないっておまえがいちばんわからないよ」
孫は、吐き出すように言った。
わからない、わからない、ともう一人が節をつけて歌った。
十年経って、孫たちはだれもその町にはいなかった。祖母はまだ同じ家に住んでいて、本数の減った列車をときおり眺めていた。”
これは「小さな駅の近くの小さな家の前で、学校をさぼった中学生が三人、駅の方を眺めていて、十年が経った」と題された一篇の一部だ(この本には33篇の短い話が収められており、「娘の話」「ファミリーツリー」という挿話を除き、一つ一つにその話を要約したようなタイトルがつけられている)。
改行もなく、いきなり十年が経つ。そして十年経つと、空き地に中学生三人の姿はいなくなり、祖母だけがまだ空き地の裏の家にいる。電車は本数が減ったがまだ走っている。この次の一行ではさらに十二年の時が経ち、駅は廃止になって取り壊され、祖母がいた家には、祖母の代わりに孫が住んでいる。
と、『百年と一日』の中では、時間が一気に流れたり、かと思うといきなりスローになったりする。時間が主人公の小説、とキザなことを言いたくなるほどだ。
DVDのリモコンをめちゃくちゃに操作してチャプターを飛ばしたりコマ送りにしたりしたみたいに激しく動く時間に対して、その中に現れる人間たちはただただ文句も言わずその流れに翻弄される。同じ場所にずっといた人がある日ふいに去ったり、また戻ってきたり、もう戻ってこなかったりする。
でもそれを読んでいても「時間は残酷だな」みたいな、簡単にどこかの引き出しに収まるような気持ちにはならず、どこにいる誰にでも絶対に平等に時間が流れるということの安らぎの方を強く感じる。時間はこの世の中のどんなにひっそりと隠れた場所にも満ちて、そこでいつも流れている。
「二階の窓から土手が眺められた川は台風の影響で増水して決壊しそうになったが、その家ができたころにはあたりには田畑しかなく、もっと昔には人間も来なかった」と題された一篇にはこういう一文がある。
それよりずっと前、人間は来なかった。大きな動物もいなかった。風が南から吹き始めると、きまって雨になった。
人が誰もいない場所に降った雨のことが書かれている。これを見て描写しているのは誰なんだろう。ドライなカメラの視点を思い出す。人間が存在しようがしまいが、あらゆる場所をずっと映し続けているカメラ。自分で書いた「ドライ」という表現だが、それでは冷酷というニュアンスが含まれるからこの言葉は不適当で、人智を越えた感覚という感じだ。人によっては「神様」という言葉の方が伝わりやすいかもしれない。
と、ここまで書いた文章を読み返し、「挿話」って書いたけど意味あってるかな?と思って検索した。
“文章や談話の中途にはさみこまれる、本筋と直接関係がない短い話。エピソード。”
と出てきた。
だとしたら、この本自体が、まるで「挿話」の集まりのようでもある。本筋の中に取り込まれることを拒むような、バラバラなままの複数の話。でも、読んでいると、「もしかして、あの話に出てきた人物は、また別の話に出てくるこの人物と同じ人なんじゃないか」と思えたりもする。証拠が示されるわけではないが、それぞれの話の端と端が繋がっているように感じられたりする。
そしてその感覚は自分の記憶にも作用して、読んでいるうちに自分の経験したことがどんどん引っ張り出されてくる。
先日、“柴崎友香×小川さやか「人間と時間の不思議」”というオンライントークイベントに参加した。参加というか、お二人の話を家のパソコンで聴いていただけだが、そこで柴崎さんは「普段私たちは喋りながら複数のことを考えたり別のところを見たりする。小説はそれを一本の線上で繋げられるのが面白い」というような主旨のことを話していた。時間や場面を自由自在に行き来できるのも小説の面白さだ。
この多方向性が、一篇ごとに独立した話をどこかで繋がっているように感じさせたり、この小説を読む人に自分の人生を思い起こさせたりするんだろう。一見すると静かな装いの本だが、読んだら何かを思わずにいられない発火装置のようでもある。自分の中だけに留めておけずにこの小説を読んだ人と感想を伝えあいたくもなるし、自分にとって身近な景色をこの小説のような時間感覚で捉えたらどうなるだろう、と考えてみたくもなる。自分の中のあちこち刺激され、動き出すような小説だった。
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1979年生まれ水瓶座・A型。酒と徘徊が趣味の東京生まれ大阪在住のフリーライター。WEBサイト「デイリーポータルZ」「集英社新書プラス」「メシ通」などで執筆中。テクノラップバンド「チミドロ」のリーダーで、ことさら出版からはbutajiとのユニット「遠い街」のCDをリリース。大阪・西九条のミニコミ書店「シカク」の広報担当も務める。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』、『遅く起きた日曜日にいつもの自分じゃないほうを選ぶ』(共にスタンド・ブックス)、『「それから」の大阪』(集英社)、『酒ともやしと横になる私』(シカク出版)『思い出せない思い出たちが僕らを家族にしてくれる』(新潮社)。パリッコとの共著に『酒の穴』『酒の穴エクストラプレーン』(シカク出版)、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』(ele-king books)、『“よむ”お酒』(イースト・プレス)、『ご自由にお持ちくださいを見つけるまで家に帰れない一日』(スタンド・ブックス)。
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