
阪神梅田本店1階の催事場・食祭テラスで2026年3月11日(水)から3月16日(月)にかけて開催される「台湾&沖縄 チュラネシアへの旅 亜熱帯フードトリップ」との連動企画として、台湾と沖縄という二つの地域の特色や共通点をテーマに、それぞれの専門分野を持つ4人の方々にお話を伺った。
人気の旅行先でもあり、また独自の文化と複雑な歴史とを持つ台湾と沖縄を、“チュラネシア”という文化圏として捉え直してみた時、どのようなことが浮かび上がってくるかを、4人の言葉を通じて感じていただければ幸いである。また、この記事が入口となって、台湾と沖縄に興味を感じていただき、「台湾&沖縄 チュラネシアへの旅 亜熱帯フードトリップ」にも足を運んでもらえたらうれしい。
シリーズの第3回目は、大阪市西淀川区で伝統楽器・三線の販売・修理店「三線工房きよむら」を営む、清村斉(ひとし)さんへのインタビューである。清村さんは、沖縄・多良間島の出身で、三線専門店を営むかたわら、三線の名手として教室を開き、さらには唄者として島唄や民謡を歌う方でもある。
また、清村さんは中国に長く住んでいた経験があり、中国の風土や文化にも詳しい方である。台湾についても身近に思っているそうで、音楽を通じた交流を経験したこともあるという。そんな清村さんのこれまでの足跡についてお話を伺っていくと、清村さんの人間としての魅力とともに、チュラネシア文化圏に共通する精神性のようなものを強く感じることができた。まずは清村さんの生い立ちのことから伺った。

「三線工房きよむら」を営む清村斉さん
――まずは生い立ちのお話からお聞きしてもいいでしょうか。
私は1971年生まれなんですけど、幼少期からゆったりとした時間の流れの中で生活していました。学校だけはちゃんと時間が決まってましたけど(笑)。休みになると父親が海に行くのについて行ったり、父は畑仕事でサトウキビを育てていたんですけど、そういう仕事の時間もやっぱり夏と冬では違うじゃないですか。太陽が上がって沈むまでが働く時間ですよね。朝、馬車に乗って畑に行って、その頃はおばあちゃんが元気だったんで、おばあちゃんがお湯を沸かしてお茶を入れて、10時ぐらいになるとちょっと休んで、家に帰らなくていいようにご飯をおにぎりにして持って行って、あとは芋とかね、芋を練って持っていって、ニンニクを黒糖でつけたやつとか。ソーミンチャンプルーだったら、その場で鍋で炒めたりとか、小さい頃はそういう生活でした。
――その頃の多良間島では馬車で移動していたんですね。
小学校の低学年ぐらいまでは馬がいて、畑も馬で耕していましたね。父の畑はいくつもあったんですけど、ヤギとかを飼っているところが一か所あって、その番屋に肥料を置いてるんで、そこがメインの畑なんです。そこには網も置いてあって、自分たちが畑仕事をしている間に、近くがすぐ海なので、父親が網を仕掛けにいって、それをまた取りに行って、獲った魚を畑でさばいて食べたりもして。
――小さい頃からもう家の仕事を手伝っていたんですね。
そうです。魚をさばくのも全部手伝って、それで覚えました。小学校からはもう手伝っていましたよ。ヤギが食べる草を刈って、私はヤギが大好きなんですけど、ヤギを潰すのも、もう幼稚園ぐらいから父と一緒にやってました。
――ヤギは潰して食べるということですよね。
はい。鍋にして食べましたね。多良間島は味噌でやるんです。島で作った赤味噌で、味噌汁みたいにするのが多良間島風なんですよ。沖縄本島とは違いますね。
――味噌鍋で食べるんですね。
あげる飼料が少ないから、サトウキビの葉っぱをあげたりして、そうするとヤギの肉が美味しくなるらしいです。多良間島は平べったい島で、何にもないんですよね。
――周りが海で、魚はどんなものが獲れるんですか?
ブダイとかも獲れるし、冬になったらイカですね。イカも獲りに行ってましたね。夜中、親父と一緒に。うちの親父は漁師もしてたから、一緒に潜りに行って、刺身用のものだったら捌いて。うちには魚があるってみんな知ってるから、食べたい人から電話が来るんですよ。「どんな魚が入ってる? 売ってくれ」とかね。小さい頃、一番楽しかったのは、家の近所の家族同士で、三つ四つぐらいの家族で、追い込み漁っていうんですけど、海が遠浅になった時に、リーフの中にこう網を張ってバーって追い込み漁をして、獲ったものをみんなで分けるんですよ。3家族だったら、それぞれの家族の父親が分けていくんですけど、私が行くと、小さい子どもだったけど、うちの家の分け前がちょっとプラスされるんですよ(笑)。

島の思い出を語る清村さん
――手伝った分、もらえる量が増えるわけですね。
そういうのは非常に楽しかったですね。朝からおにぎり持って出かけて、エビとかカニはよく獲りましたね。伊勢海老は湯がいて食べるのが一番美味しいですね。あとはゾウリエビ、あれは美味しいです。貝もよく食べました。貝は兄弟みんなで獲りに行っていました。最近、奄美や沖縄の居酒屋で食べられているチャンバラカイってものですね。あれを島でもよく食べるんです。
――家のお手伝いも兄弟みんなでしていたんですね。
大体やってましたね。でも私が一番親父と一緒に海に行ってました。その頃は自分が家を継ぐと思ってましたから。親父も私に継いでもらいたかったんじゃないですかね。
――三線や唄もお父さんから習ったんですか?
いやー、聴いて育っただけだから。あるからちょっと弾いて、みたいな。普通に自分で調弦して、『十九の春』とか、簡単なものをやってましたけど、(三線には)そんなに興味はなかったんです。中学校の担任の先生がフォークギターを持って弾いてたから、それがかっこいいなと思って。三線ではモテると思わなかったから(笑)。
――ギターに憧れたこともあったんですね。
中学校の頃は、吉田拓郎とかね。かぐや姫とかも歌ってましたね。長渕とか。中学の最後は、自分ともう一人の相方で一緒にギターを弾いて、『乾杯』歌って卒業しました(笑)。
――高校時代はどうでしたか?
私の先輩方に、沖縄に出て沖縄の高校の空手部に入って活躍した人が結構いたんですよ。その当時。その先輩が大学生になっていて、大学でも空手をやって全国大会に出るぐらい、組手の強い人だったんです。ガタイもよくて。その先輩が休みの時に島に帰ってきたので話をしていて、それまで私はバスケットボールをしてたんですけど、「空手で一本パーンと取った時の快感はすごいよ」って先輩が言っていて、その頃はブルース・リーとかジャッキー・チェンもみんな好きだったので、それもあって、空手をやってみたいと。「じゃあどこに行こうかな」って先輩に相談したら「うちの高校に来たらいい」と言われて、私はまだ決断してなかったんですけど、もうその先輩が学校の空手部の先生に「後輩の清村っていうのが来るから、よろしく」と言ってたんですよ。
――先回りされていて。
でも私はすぐに決めるのは嫌だから、1週間か2週間ぐらいちょっと様子見てから行こうと思ったんですよ。そしたら一年生のクラスの前の貼ってある空手部のポスターに「清村、無駄な抵抗はやめて早く入ってこい」って書いてあったんです(笑)。
――ははは。マンガみたいですね。
友達がそれを見つけて「清村って、これお前のことじゃないか?」ってびっくりしてました。それで高校から始めて、個人ですけど、インターハイに行ったりもして。その当時はそれほど空手をやっている人も多くなくて、クラスには私しかいなかったし、400人いる学校の中でも男子は3、4人しかいなかったですね。
――やる気がある新人というだけでもすでに貴重だったんでしょうね。しかも才能もあって。
そこで3年頑張って「もういいか」と思って辞めようと思ったら、先生に「あと4年間は大学で頑張れ」「アメリカ行ってこい。俺の弟子がいるから」って言われて行ったのがサンディエゴだったんです。というのも、高校を卒業してから一年ちょっと浪人していたんです。高校の時にインターハイで準優勝していたので、大学に推薦してもらえるはずだったんですけど、色々あって学校側から推薦できないということになって、……まあ、友達のバイクを借りて遊んでたら捕まったっていうぐらいなんですけど。その浪人時代にサンディエゴに行くことになって、その頃はスマホもないから、向こうでどんな人が迎えに来るかわからない状態だったんですけど、向こうに着いたら沖縄出身の先輩がいて、そこでコーチ助手として現地の子どもたちに空手を教えたり、昼間は先輩が経営している日本レストランで働いたり。楽しかったですね。3ヶ月ぐらいいて、「もうこのままサンディエゴに住もう」と思ったんですよ。
――そのままサンディエゴで暮らそうと。
そうです。でも親が「戻ってこない」って心配して、それで戻ることになって。戻ってきたら師匠の家に「お前、今日はうちに泊まれ」って逃げられないようにされて(笑)。それから、沖縄大学に入学して、師匠は佐久本嗣男(つぐお)という人で、オリンピックチャンピオンの喜友名諒の師匠と同じなんです。劉衛流(りゅうえいりゅう)という流派で、四代目までは一子相伝だったのを、教員だった私の師匠が「どうしても教えてほしい」と言って受け継いで、子どもたちに教え始めたのが始まりで。それから……同じようにそこで空手を習っていた高校の時の先輩が、その後、北京体育大学に行ったんですよ。その先輩が好きになった人が雲南省の人で、先輩はそのまま残って、そこで日本料理のレストランを開業したんです。そこに誘われて行って私が調理をするようになって。
――人生の情報量がすごいです。中国ではどんな生活をしていたんでしょうか。
雲南は米の麺、米線(ミーシェン)が有名なんですけど、それをよく食べに行っていましたね。仲間と2、3人で行って、駐在している日本人の人たちとも友達になりました。物価は日本より安かったです。多分、今でもまだ安いと思います。仕事以外は……空手の練習をしてました(笑)。武術家のメンバーがいたんで、突いたり蹴ったりして。うちの流派には古武道があるんですよ、棒とかサイとか、鎌も使います。昼は大きな体育館行ってウエイトトレーニングを毎日して。あとは、毎日酒を飲んでましたね。
――中国の話だけでも面白いエピソードが山ほどありそうです。三線に関わるようになったのはなぜだったんですか?
浦添にある家具屋に勤めていたんです。そこの社長さんも空手の先輩のお父さんと繋がりがあって。その家具屋では三線も売っていたんですけど、社長から呼ばれて「清村、2000年に(沖縄県)名護市でサミット(第26回主要国首脳会議)がある。これから名護が発展するかもしれない」と。それで、名護に三線屋さん兼家具屋さんもオープンしたんですよ。そこを手伝って欲しいと言われて。
――なるほど。
三線を本格的に習ったのは雲南省に行く前のことだったんですけど、門を叩いたのが同じ多良間島出身の民謡の先生だったんです。それでやっていくうちに、色々と新人賞とか最高賞とか、いただくようになって、三線を教える免許状ももらって。

唄者として数々の賞を受賞している清村さん
――才能がすごい! なんでもできるんですね。その頃、将来は三線を仕事にしていこうと思っていたんですか?
何も考えてなかったです(笑)。そのうちに古典音楽っていうのもやり始めて。多良間には宮古島と違う、多良間島だけの唄もあるんですよ。「宮古民謡」っていうくくりに入るんですけど、多良間の独自の唄もあるんです。沖縄の民謡にも興味が出てきて、それも習ってみて。そうすると、沖縄の言葉が自分の中に入ってくるんですね。
――宮古民謡と沖縄とにも違いがあるんですね。
唄い方っていうか、雰囲気が違うんですよ。ちょっと遊びが入ってるのが沖縄の方ですね。流行も取り入れながら変化してきたもので。それに対して宮古はもう、元々あった歌なんですよね。新しいものではない。だから味をつけるとおかしくなる。
――面白いですね。
でも、三線の世界っていうのも、私が三線であちこちに呼んでもらうようになったのは仕事を始めてから、20歳後半ぐらいからのことで、この仕事を始めたのもたまたま呼ばれて家具屋さんを手伝いに行ったのがきっかけで。
――人の縁に運ばれていくような感じですよね。でも、相当な器用さがないとできないことだと思います。
うちのおじいちゃんが大工の頭領をしてたらしいんですけど、自分の親父も海の仕事をしているけど、大工もできたんですよ。夏休み期間中に建築の仕事のアルバイトに行ったりして、釘を打ったり、木材を削ったりはしていたんです。父親も器用でしたし、私も作るのが好きで、子どもの頃、凧揚げの凧を自分たちで作るのも趣味でしたね。同級生で誰が一番綺麗に竹を削れるかとか。
――小さい頃から、手伝いもそうだし、作って遊ぶことを当たり前にしてきたことも影響しているのかもしれないですね。
そうそう。料理も、プロじゃないけど「寿司握って」って言われたら握れるし、魚も捌けるから、だからあっちこっちでいろんな仕事をして。
――聞けば聞くほどすべてが繋がっているように思えますね。でも、そうやって三線を作ったり、演奏をするというところから、ご自身の工房を持つというのはどうしてまた。
もともとは社長に雇われて約10年やってきて、やっぱりその場にいると売り上げが大事になってくるし、あんまり景気がよくなかった時期もあって、ちゃんとお客さんを見て仕事したいと思ったんですよ。作ったものを納品するだけじゃなく。それで一人で仕事をしてみようかと考えた時に、私がいた会社からは三線を関西のあちこちに送っているけど、関西にはその三線を修理できるところがないっていうのを聞いたんです。皮を張り直してくれる店がないと。
――そうなんですね。
そういう話も聞いたし、私の妻が大阪の出身だし、じゃあ行こうかと思って、住めるところを探していたらここが見つかって。それが2009年のことです。

大阪市西淀川区佃に店舗のある「三線工房きよむら」
――そうやってここへたどり着いたと。それから16年ほどが経ったわけですが、大阪では相手にするお客さんも違いますよね。
最近になってまた忙しいですね。色々な人が来るから、その対応も色々で。沖縄の関係者かなと思ったら全然違う。8割、9割方はこっちの人なんですよ。
――そうなんですね。もともと沖縄にいた方というわけでもなく?
違うんです。沖縄に行って三線が好きになったっていう人が多いんです。最近だと、宮古島に旅行して三線にすごい興味を持ってうちに来た人もいたし。大正区の沖縄の県人会で演奏を聴いて、習いに行ってみたらやっぱり楽しかったからやりたいという人とか。年齢層も結構色々ですよ。
――この三線の皮っていうのは価格帯によってどんな違いがあるんですか?

工房内には様々な価格帯の三線が並んでいる
これはニシキヘビの皮なんですけど、大きくするためにはたくさん餌をあげて何年もかける必要があります。一年目のものは一年目の皮の厚みしかないから、ちょっと一枚で張るのには弱いんですよ。それは“強化”といって下地を張ってやるとかね。用途によっても選ぶものが違ってくるんです。ジャンルによって柔らかい音がいいとか、ちょっとピーンとした音がいいとか、それに合わせて「だったらこっちの皮で緩めに張った方がいいよ」とかね。
――ここに来ると、そういうようなアドバイスもしてもらえるわけですね。どんな三線を買うべきかとか。
そうです。今はネットで三線を買う人も多いんですけど、破れた時の張り替えとか、メンテナンスはネットでは簡単にはできないんです。お金をかけて依頼しても、送り返されてきたものがあまり好みの音じゃなかったとか。
――なるほど。今回の催事に寄せて、台湾のことも伺いたいんですが、台湾へは行かれたことはありますか?
あります。台湾って私の中ではすごく身近なところなんです。行ったのは一度だけなんですけど、三線の生徒の娘さんが台湾に留学していて、「先生、今度一緒に行こう」と話したりもしていて、身近に感じています。私が子どもの頃、多良間島の診療所のお医者さんが台湾人だったんですよ。台湾の家族が住んでいて、女の子がいて、先生が台湾人だったんです。どうやって派遣されてきたかわからないけど、その記憶があるんですよ。
――それだけ沖縄と台湾が近い距離感でもあるということですよね。
台中市と浦添市に交流がありますし、私はエイサーの地方(じかた)を浦添のエイサーチームでやってて。子どもたちが中心になって活動するグループなんですけど、大人も和太鼓もやるし、そこで三線を弾いて、そのエイサーで16年ぐらい前に台湾に行ったんですよ。
――そうだったんですね。ちなみに清村さんは会期中に会場でライブをして、さらにオトーリを披露してくださる予定だとのことなんですが、オトーリというのはどういうものなんでしょうか。
車座になって、最初の一人がひとこと言って、泡盛を飲んで、また次の人がひとこと言って飲んでっていう、そういう文化です。そういうオトーリもあるんですけど、これが起源じゃないかと私が思っているお祭りでは、御嶽(うたき)に集まって、一方が歌ったらもう一方が歌い返してお酒を飲み合うんです。それを夜中までやるんです。私は高校で沖縄に出てしまっているからそのお祭りには参加したことがないんですけど、うらやましかったですよ。楽しそうで。
――そういうお祭りが起源なんですね。
そうじゃないかと思っているんですけどね。島の4か所でやるんですけど、あれは結界のような意味合いもあったんでしょうね。悪い物をそこで止めるというような。
――そういう神事なんですね。
はい。でも、泡盛を飲み合うオトーリはそれとはまた別で、一緒に飲んで交流するというようなものです。
――会場でお会いできるのを楽しみにしています。今日はありがとうございました!
清村さんのパワフルさが伝わっただろうか。青年期までのお話を伺っただけで、本当に自分と同じ時間の中で生きてこられたのだろうかと思うほどに密度が濃いのだった。
清村さんのお話を聞いていて興味深かったのが、人の縁によって次々と人生が展開していくところである。一見するとそれは受け身な姿勢のようにも見えるのだが、清村さんはその都度の目標に向かって全力で取り組んでいることが伝わってくる。そして、ひたむきでありながら、人生を偶然に委ねるような大らかさを持ち合わせているようでもある。その生き方に、チュラネシア的な世界観、人生観を垣間見た気がした。

(X/tumblr)
1979年生まれ水瓶座・A型。酒と徘徊が趣味の東京生まれ大阪在住のフリーライター。WEBサイト「デイリーポータルZ」「集英社新書プラス」「メシ通」などで執筆中。テクノラップバンド「チミドロ」のリーダーで、ことさら出版からはbutajiとのユニット「遠い街」のCDと、単行本『ずっとあった店 スナック屋台おふくろ編』、『ずっとあった店 BARレモン・ハート編』を刊行。大阪・西九条のミニコミ書店「シカク」の広報担当も務める。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』『遅く起きた日曜日にいつもの自分じゃないほうを選ぶ』『家から5分の旅館に泊まる』(スタンド・ブックス)、『「それから」の大阪』(集英社)、『酒ともやしと横になる私』(シカク出版)、『思い出せない思い出たちが僕らを家族にしてくれる』(新潮社)、『大阪環状線 降りて歩いて飲んでみる』(インセクツ)。パリッコとの共著に『酒の穴』『酒の穴エクストラプレーン』(シカク出版)、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』(ele-king books)、『“よむ”お酒』(イースト・プレス)、『ご自由にお持ちくださいを見つけるまで家に帰れない一日』(スタンド・ブックス)。
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