第2回 三線の響きを聞きながら小林昭弘さんに教わった徳之島の魅力

阪神沿線の“奄美”な人たち 第2回

阪神梅田本店1階の催事場・食祭テラスで2025年2月26日(水)から3月3日(月)にかけて開催される「あまみ群島ワンダートリップ 奄美大島・加計呂麻島・請島・与路島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島」との連動企画として、奄美群島にルーツを持ち、阪神間を拠点に様々な活動をしている方にお話を伺った。

私は20年近く前に一度だけ奄美大島に旅行をしたことがあるのだが、その時は宿の近くの海でひたすらのんびり過ごしただけで、島の文化にしっかりと触れたとは言い難い。つまり、奄美群島についてはほとんど何も知らないに等しい状態である。

今回お話を聞かせてくれたみなさんはそんな門外漢丸出しの私の質問に真摯に答えてくださった。そしてそれにより、奄美群島の島々のことを以前より少しは知ることができ、また、それらの島から関西に出てお仕事をされている方々ならではの思いを伝えていただくことができた。貴重なお話を聞き、できるだけ近いうちに奄美の島々に足を運んでみなくてはと思っている。


シリーズの第2回目は、一般社団法人徳之島理事長の小林昭弘さんにお話を聞いた。小林さんは、奄美群島の徳之島出身で、阪神尼崎駅前で毎年開催される「尼崎徳之島祭り」の主催を務めていらっしゃる方である。徳之島から関西に出てきて以来、様々な形で関西と徳之島とを繋ぐ役割を果たされてきたという。そんな小林さんに、徳之島の話や尼崎徳之島祭りが開催されてきた経緯についてたっぷりと伺った。

ちなみに、インタビューは大阪市都島区にある「美ら島 真心」というお店で行った。2025年に10周年を迎えるお店で、奄美大島の黒糖焼酎「里の曙」の大使でもある栄百々代さんが店主を務めている。奄美大島の美味しい郷土料理とお酒を味わいつつ、内閣総理大臣杯のグランプリ賞を受賞した名人でもある栄さんの演奏も聴かせていただくという贅沢な一夜になった。

――今日はよろしくお願いします。小林さんはいつまで徳之島にいらっしゃったんですか?

僕は高校まで。高校を卒業して今の会社に入って、それから54年目ですか。

――54年も勤めていらっしゃるんですね。

会社一筋です(笑)。うちの会社はもともと車業界の仕事全般をやっとって、ガソリンスタンドから中古車販売から、フォードの特約店もしたり、あとは整備工場とかですね。自転車の方も平成12年から始めまして、色々と多角化して、製薬の方もやってましたから。

――会社に入るために徳之島から来られたということですね。

そうですね。学校から紹介してもらって、島から出てくるので、寮のある会社を希望したわけです。うちの会社には寮が4つも5つもあって、当時、千何百人ぐらいは寮に入っておりましたので。

――場所は大阪ですか?

大阪以外にも、ガソリンスタンドの寮とか、それがあちこちに70か所ぐらいありましたね。

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お話を聞かせてくださった小林昭弘さん

――小林さんもガソリンスタンドで働かれていたんですか?

ガソリンスタンドに行ったり、整備工場に行ったり、タイヤの方の仕事したり。色々としました。当時は、「男女混合寮」ゆうて、1階から3階までは男子寮、4階から5階は女子寮とかですね。毎日23時に点呼するんですが、その後にビール買って飲んだりとかね(笑)。

――寮には徳之島からの方が多かったんですか?

いえ、全国からです。その当時ゆうたら、田舎から出てきて寮のある会社に就職するというのが多かったですから。たとえば徳之島からの集団就職というと、我々の先輩連中は「日紡貝塚」とか、そういう紡績会社に女性が集団就職していましたね。そこに勤めて、今も泉南あたり、泉佐野とかに住んでいる方は多いですよ。

――徳之島は闘牛が根付いていて勇壮な文化があると聞いたことがあるのですが、小林さんは、いかがですか?

私は真面目な方でした(笑)。けど、島には相撲取りも多かったですね。たとえば初代の朝潮太郎は徳之島出身です。第46代の横綱ですね。結構、頑丈な人が多かったですね。昔から、相撲がさかんなんです。徳之島だけでなく、奄美全体で相撲はさかんです。盆の時なんか、「浜くだり」ゆうて、海の近くに集まって踊りしたり、相撲したりですね。

――遊びの延長というか。

そうですね。奄美は村々に土俵がありますね。他にあまり遊ぶものがなかったですから。

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安納芋が入っていて美味しかったおでん

――相撲がそんなにさかんだったとは知りませんでした。

「関西奄美相撲連盟」ゆう組織もあって、毎年、大阪場所が始まる前に奄美出身の力士の激励会をしたりしていますよ。

――今の力士にも奄美出身の方がいるんですか?

明生がいますね。あと、徳之武藏ゆうて、幕下ですけど。武蔵川部屋ですね。

――そうなんですね。注目してみるようにします。ちなみに徳之島はどれぐらいの広さなんですか?

島の周囲が20余里ゆうて、80㎞ぐらいですかね。集落は各町に10か所ぐらいずつあるから、40ぐらいあるんじゃないですかね。

――島の中で小林さんのご出身はどのあたりですか?

天城町の岡前(おかぜん)というところで、北の方です。空港が近くにあります。西郷隆盛が島流しになって徳之島におった場所が岡前なんです。西郷隆盛が住んでおったところが、まさに私の家の前なんです(笑)。

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西郷隆盛が住んでいた場所のすぐ近くが小林さんの出身地だという

――それはすごい。岡前はどんなところですか?

田んぼの多いところです。島におった頃は、みんな腹を空かせてました。うちは10人兄弟でね。僕は8番目でしたけど。その頃ゆうたら子どもが7、8人おるのが普通でしたから。うちは長男が亡くなって、四女が亡くなって、今、8人ですけど、徳之島に二人、奄美大島に一人おります。あとは大阪が多いですね。たいていは高校を卒業してこっちに出てきますから。

――畑ではどんなものが獲れましたか? じゃがいもが有名だと聞きました。

そうそう。徳之島の赤土ばれいしょゆうて、結構有名で、テレビにも紹介されています。おでんなんかにしても崩れないゆう。沖永良部にもじゃがいもがありますけど、種類が違うんです。徳之島は男爵で向こうはメイクインで。

――じゃがいもはよく食べていましたか?

2月ぐらいから5月ぐらいまではよく食べていましたね。昔から作っとったものですけど、今のように外まで出荷されるようなものではなかったですね。そのまま炊いて食べたりしていました。

――お魚も食べましたか?

魚やら豚は食べましたね。豚は各家庭で飼うとるわけですね。盆と正月は各家庭から必ず豚の鳴き声が聞こえてきました。島に専門の方がいて、捌いてもらってね。血も無駄にせずに炊いて食べたりしていました。豚肉や、昔は馬なんかでも捌いて、よう飼うてました。農耕用の小さな馬ですけどね。

――島にはよく帰られるんですか?

今は年に2回ほど帰って役場で打ち合わせをしたり。徳之島には3町あるんです。その町長さんと会ったり、JA奄美、JA徳之島に行ったり。毎年1月と6月に帰ります。というのは、1月は、3月にある「尼崎徳之島祭り」の打ち合わせですね。町長のみなさん、議会のみなさん、職員のみなさん、JAの方と。

――小林さんが色々な方を繋いでいるんですね。

まあそうですね。今は島に我々の仲間も常駐してくれていますので、向こうと調整しながら進めていますね。一人では何もできませんから。

――「尼崎徳之島祭り」を阪神尼崎駅前で始めたのはなぜだったんですか?

まず我々、奄美群島の人たちは、阪神尼崎駅近くの「中小企業センター」とか「アルカイックホール」とか、そういった施設で会合をすることが多いんです。徳之島全体の集まりとか、奄美大島全体の集まりとかですね。アルカイックホールは2000人ぐらい入る大きなホールなんですが、そこで奄美会の新年互礼会があったり。

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2024年に開催された尼崎徳之島祭りのパンフレット

――なるほど、それもあって尼崎だと集まりやすいわけですね。

そうなんです。(テーブルの料理を指差して)これは沖縄や奄美の「あんばぞうめん」ゆうてね、油そうめん。そうめんチャンプルーですね じゃこ(いりこ)が入ってます。これが好きで、この店でいつも食べています。

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そうめんチャンプルーは小林さんのお気に入り

――いりこの旨味もよく合って美味しいですね。これは徳之島でも日常的に食べるものですか?

食べますね。昔は畑仕事しとって15時頃になったら食べて、夏なんか暑い時には冷やしそうめんにしてね。

――このそうめんは島で作っているんですか?

いや、島では作っていませんね。沖縄からのものです。かつては我々奄美群島も琉球やったわけです。1500年ぐらいの時代ですね。それが奄美群島が島津藩に制圧されて鹿児島に入って、沖縄は琉球として残ったわけですね。1500年ぐらいまでは、琉球王朝時代ですから沖縄から奄美群島へも船が来たりとかね。うちの家のルーツも沖縄やったんです。家系図が1500年ぐらいからあって、それを見ると沖縄から来た家のようです。僕はハーフで、母親は三重県の答志島の出身なんです。漁師をしていて。海女さんでね。

――そうなんですね。小林さんのお母さんはその後、三重県から徳之島に行かれたわけですか?

そうです。うちの親父は一人息子やったんですが、親戚を頼って大阪に出てきたわけやね。島にはじいさんが決めた許嫁がおって、それで大阪に来たんやけど、うちのおふくろもちょうど大阪に仕事で来ていて、そこで知り合うて。

――許嫁は島にいるけど、出会って。

それで、昭和16(1941)年に、子どもを3人連れて島に帰ったちゅうわけ。許嫁がおるのに子どもを3人も連れて帰ったから、破門された(笑)。じいさんに勘当されてね。実家には入れんで、別に家を作って。昔の家ちゅうたら茅葺きのね。話が逸れましたね。徳之島祭りの話やった(笑)。

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「美ら島 真心」のソデイカのお刺身もまた美味しかった

――続きが気になりますけど、そうですね。まずは尼崎徳之島祭りの始まった経緯を知りたいです。

関西徳洲会という組織があって、その60周年の記念の時に、僕が執行部におったんですが、僕の小学校からの幼馴染が鹿児島県の大阪事務所に赴任しとって、彼が僕に提案してくれたんですね。執行部は2年間勤めたら持ち回りで変わってしまうんですが、それで終わりじゃなく、長期に渡って物産を売ったりできるような組織を作らにゃいかんと。

――なるほど。

60周年記念の時にアルカイックホールでフォーラムを開くことになって、そこで「長期的に徳之島の物産展をできるような体制を作りたいんです」と、みなさんの意見を仰いだら、「ぜひやって欲しい」という声が多かったんです。そのフォーラムが平成22(2010)年だったんですが、翌年の平成23年に「ボランティアで徳之島に貢献できるような組織を作ろうじゃないか」というので一般社団法人徳之島を設立して、平成24年に第1回の「尼崎徳之島祭り」をやって、最初はどないしてやったらいいかと試行錯誤しながら進めたんですが、回数を重ねるごとに、お客さんが増えて。

――物産を売るだけじゃなく、今では歌や踊りもあるような賑やかなイベントになっていると聞きました。

そうそう。「模擬闘牛」もしてね。徳之島の闘牛さながらにね。模擬闘牛でも熱が入るんですよ。徳之島は闘牛は昔からの伝統ですから。徳之島の子どもが横綱の牛を持ちたいって。それが夢やって言うほどで。牛を飼っている家では、小さい子が世話をして牛を散歩させたりとか。

――島の闘牛というのは、観光しに行って見れたりするもんなんですか?

見れますよ。3000人ぐらい入れる場所なので。1月、3月、5月とあって、5月が全島大会。8月もあって、10月は全国大会で。

――そんなに頻繁にあるものなんですね。

闘牛は沖縄では石垣島や本島もやってますし、徳之島、宇和島、隠岐の島、新潟の小千谷市とか。全国大会は年毎に会場を変えてやっています。

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闘牛の角の生え方について解説してくださった小林さん

――そんなにあちこちでやっているということ自体知りませんでした。徳之島は観光客は多いですか?

いや、直行便がないから少ないですね。自然の景色はすごいですよ。たとえば「ムシロ瀬」ゆうところだったら、石がだーっとあったりとか、「犬の門蓋」ゆう、サンゴでできた洞窟があったりとか。いま、「ウンブキ」ゆうて話題になってるところもあります。海の下にある鍾乳洞で、カメラマンが潜って撮影しても700、800メートル行ってもまだ続いていて、その先へはもう潜れないちゅうわけです。あれはどれぐらい続いているかわからない。あと、奄美大島と徳之島にはクロウサギがいるんです。私も見たことがありますよ。夜行性ですからなかなか見れないですけどね。

――自然豊かな島なんですね。島にいた頃の記憶で思い出に残っている景色はありますか?

うちのある天城町は夕日、サンセットが綺麗なんです。で、反対側は海から朝日が昇ってくる。あれがもう最高なんですよ。僕は海の反対側の高校の寮におったもんだから、よくその朝日は覚えています。男子寮と女子寮があって、朝飯と晩飯は男子寮で女子も一緒に食べる。お昼は弁当なんですが、それは女子が男子の分まで詰めてくれる。そういう時代でしたね。男子寮、女子寮のみんなで年に2回、観光バスで徳之島一周をするんです。その時にフォークダンスをしたりとか。一級下に可愛い子がおって、まあ色々ね(笑)。同窓会で会いましたけどね。

――島を出た後も繋がりがあるんですね。

そうです。奄美群島全体の同窓会もあるんです。その事務局長を僕がしとるんですけど、大変なんです(笑)。毎年、道頓堀のホテルで、120人ぐらい集まってね。奄美群島の高校が甲子園に出るという時は集まってその応援をしようとか。

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「美ら島 真心」店主の栄百々代さんにも同席していただいて島のお話を聞く

――同窓会に集まるみなさんの年齢は幅広いですか?

広いですね。高校卒業してすぐの方から80歳の方から、色々いますね。そこで若い人たちを先輩に紹介する意味もあるんですね。大学生がおったりとか。各高校に同窓会があって。

――小林さんは色々な役をやられてるんですね。

みんな繋がるんです。奄美群島の組織に関わったら鹿児島県人会まで繋がったりね。僕は天城町連合会の会長をしているんですが、そうなると関西奄美会の副会長に自ずとなるんですね。他にも、徳之島高校の同窓会があるんです。その副会長をしたりとか。あれこれするもんですから、嫁さんに怒られる(笑)。

――もう一年間のスケジュールがぎっしり詰まってそうですね。

そうですね。毎週毎週、何かあるもんね。たとえば奄美群島高校同窓会の係が一期3年なんで、それが来年で終わるんですが、それが終わったらそこの会長をしてくれんかって言われていて(笑)。まあ、たまに息抜きにソウルに行ったり、台湾行ったり、旅行していますけどね。息子が段取りしてくれてね。

――お子さんたちもみなさん関西にいらっしゃるんですか?

そうですね。堺にいたり、何かあるとうちの家に集まってね。

――好きな島の言葉はありますか?

「あらもんされぇ」ちゅうのがありますね。「うそでしょー」ちゅう意味で、言いやすいんです。

――どういう時に使いますか?

大げさな話をされた時ですね。「俺は総理大臣と友達なんだ」「あらもんされぇ」と(笑)。

――そういう言葉は今の若い人も使いますか?

今、島の若い人はあまり方言を使いません。30年ぐらい前からもうあまり使いませんね。島におる兄貴の子どもなんかも、40歳ぐらいになっているけどあまり使いません。我々の小さい頃は、方言ばかり使うとったわけですね。そしたら学校で「方言使ったらいかんよ」と、方言使うたら学校で先生に怒られて立たされたりとか、罰則があったんですよ。都会に出るから「都会に出て行った時に方言を使うとったら標準語は使えんよと」いったようなことで「学校では使うたらいかん」って。

――なるほど、よそに行った時に困るからと。じゃあ今や方言は貴重ですね。

そうなんです。なので今は学校の弁論大会を方言でしたりとか、劇をしたりとか、我々と正反対でね(笑)。言語学者によると、島には昔の室町時代の言葉が残ってるちゅうわけです。落人から伝わったんでしょうね。徳之島でも阿権(あごん)という集落には平清盛の子孫が多いといいますね。

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取材に協力してくれた「美ら島 真心」は奄美大島の郷土料理を味わえる名店

――徳之島でまた暮らしたいと思うことはありますか?

島で生活もしたいですが、あくまで子どものそばにおりたいと思います。こっちの方が長いですからね。帰りたい気持ちはありますけどね。元気なうちは行ったり来たりしながら過ごして、今は71歳ですけど。まあ、晩年は……(笑)。

――晩年! まだまだ先ですね。

ですかね。自分が関わっている組織の運動会で未だに高校生と一緒に走るからね(笑)。100メートルを13秒で走るのを目標にしていて、今も1時間かけて自転車で通勤してますし、60代まではトライアスロンをしてましたし。

――すごい! トライアスロンって相当ですよね、

徳之島にもトライアスロン大会があるんですよ。毎年、全国から来るんです。海外からも来ますから。ヨーロッパ、アメリカとか。徳之島のトライアスロンは前々夜祭というのがあるんですよ。島の踊りしたり。終わった後、またそこで盛り上がるんです。それがみんな楽しみやというんです。

――楽しそうですね。小林さんはこれからの徳之島がどんな風になっていって欲しいですか?

僕はいつも思うんやけど、奄美大島にはこれが名産、ゆうものがないんですよね。鶏飯はあるけど、どうしても一部の地域やから。島の名産を作ろうじゃないかと、千葉やったらピーナッツとか、あるでしょう。たとえば、徳之島だったら闘牛にちなんだ何かを作ったりとかね。牛めしかな……それをこれから作らないかん(笑)。年がら年中、空港で販売できるようなものをね。

――なるほど、名産品をうまくPRにつなげていくと。島の日常的な料理でお好きなものはありますか?

豚足とかね。豚足と大根を一緒に煮込んでね。島の豚足ゆうたら身がいっぱいあるから。

――美味しそうです。味付けはどんな風ですか?

塩がメインやね。島では海水を炊いて塩を作ってますから、サンゴの上に塩だまりができる、その塩は有名やけどね。僕らの小さい頃はソテツ味噌ゆうのを家で作ってました。あれは手間がかかります。ソテツの黄色い種を割って中の実を出して、それを乾燥させて、発酵させて、それから餅つきみたいにつくわけですね。できあがるのにだいたい2週間ぐらいかかるんじゃないですかね。各家庭でやってましたけどね。

――味わってみたいです。ちなみに徳之島には泳げる場所もあるんですか?

ありますよ。「畦(あぜ)プリンスビーチ」ゆうビーチが徳之島にある。そこは今の上皇后の美智子様が若い時に泳いだんです。

――島に宿泊施設はたくさんありますか?

ありますよ。僕がいつも泊まるところは高橋尚子がトレーニングするのに泊まっていたところでね。

――これはやはり、一度行ってみるしかないですね。

ぜひ行ってみてください。

――ありがとうございました。

宴もたけなわとなったところで、「美ら島 真心」店主の栄百々代さんが、奄美島唄の「豊年節」を歌ってくださった。おばあちゃんが織ってくれたという大島紬を着て三味線を弾きながら歌う姿は神々しく、うっとりと聞き惚れてしまった。

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奄美の島唄を聴かせてくださった栄百々代さん

栄さんいわく、「豊年節」は、かつて厳しい支配の下に置かれていた奄美大島の人々が、貧しい生活の中で「来年こそは豊かになりたい」と願いを込めた歌だという。

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黒糖焼酎を飲みながら目の前で演奏を聴かせていただく贅沢な時間

時を超えて目の前で歌われるその歌に耳を傾けていると、奄美の島々の空気がほんのりと漂ってくるように感じられた。


「美ら島 真心」
https://magocoro-amami.com/
住所:大阪府大阪市都島区都島本通3-3-29 プレアール都島6
営業時間:18時~22時
定休日:水曜日

スズキナオ
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1979年生まれ水瓶座・A型。酒と徘徊が趣味の東京生まれ大阪在住のフリーライター。WEBサイト「デイリーポータルZ」「集英社新書プラス」「メシ通」などで執筆中。テクノラップバンド「チミドロ」のリーダーで、ことさら出版からはbutajiとのユニット「遠い街」のCDをリリース。大阪・西九条のミニコミ書店「シカク」の広報担当も務める。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』、『遅く起きた日曜日にいつもの自分じゃないほうを選ぶ』(共にスタンド・ブックス)、『「それから」の大阪』(集英社)、『酒ともやしと横になる私』(シカク出版)『思い出せない思い出たちが僕らを家族にしてくれる』(新潮社)。パリッコとの共著に『酒の穴』『酒の穴エクストラプレーン』(シカク出版)、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』(ele-king books)、『“よむ”お酒』(イースト・プレス)、『ご自由にお持ちくださいを見つけるまで家に帰れない一日』(スタンド・ブックス)。

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